私だけの「お守り」としてのだめライフ
だめライフ東京
だめライフとは「お守り」である。私は、それぞれの人がそれぞれの「だめ」を肯定、受け入れるためのお守りとしてだめライフはあると思っている。だから、「だめライフの定義」なるものは存在せず、あるとしたらそれは一人ひとりの心の中にしかないのである。
しかし、「だめライフの定義」は色々な人によって様々に議論され続けてきた。そうした議論のなかで、だめライフは数々の批判にさらされてきた。
たとえば、だめライフが流行した当初から一貫して流通し続けている批判として次のようなものがある。
「だめライフはしょせん、余裕のある金持ちのお遊びである」
つまり、「留年する、働かない、などというのは実家の太いドラ息子の道楽」だと批判者たちは言いたいのである。
なるほど、これに関しては確かにその通りだ。経済的余裕のない人は大学を留年することなどできないし、ましてや働かないで暮らす選択肢などあり得ない。だから彼らは在学中はサボることなく授業に出席し、レポートや試験勉強に真面目に取り組みしっかりと単位を取り、さらには日夜アルバイトで生活費を稼いでいる。そして卒業すれば奨学金の返済のため働くのである。
その点、だめライフを名乗る者たちはどうだろうか。大学をダラダラと何年も留年する、働かないで暮らすにはどうすればいいのかなどとのたまう、ひどい在り様である。
確かに、これでは「ドラ息子の道楽」だと思われても致し方がない。
ほかにも、次のような批判がある。
「いいところの大学に通っている学生が〝だめ〟なわけがない」
これは、いわゆる偏差値の高い、「高学歴大学」(正確には高〝学校〟歴だが)に在籍している学生が「だめ」を名乗ることへの批判である。これに関しても一見その通りであるように思える。
一般に、「高学歴大学」に在籍している学生は受験に勝ち上がってきた勝者であり、いずれは大学やシンクタンク、大企業や官公庁など、社会の中枢を占める組織に所属するエリートであると見なされている。これではとても「だめ」とは言えないだろう。
しかし、大学進学率が50%を超え、文字通り「大衆化」した現代の高等教育において、「高学歴大学」に在籍する学生は果たしてエリートと言えるのだろうか。もちろん今でも社会の指導的な立場に就くエリート学生はいるが、それは全体の中の上澄みにすぎない。
進学率の上昇に伴う大学の大衆化は、学生たちの多くを、社会を牽引するエリートではなく、「平凡なサラリーマン」という歯車に組み込んだのである。
思い起こしてみれば、今から半世紀前、「1968年」の全共闘運動は、エリートとしての社会的地位を約束されていたはずの当時の大学生たちの、世代的な「怒り」の総和が引き起こした現象だった。
それは全共闘が「大学解体」を叫び、その権威を否定したことからも分かる。なぜ、あの時、丸山眞男の研究室は破壊されたのか。それは丸山が時代に恵まれたエリートであり、既得権益に胡坐をかく旧世代の遺物であり、権威の象徴だったからである。
すでにほとんどの大学生は半世紀以上前にはエリートではなくなっていたという事実は、世間一般の高学歴大学生イメージを一掃するには十分だろう。東大生だろうとその多くは歯車にしかなれないのだ。
「一億総中流」とかつて言われていたように、日本はいわゆる階級意識の薄い社会である。東大生から中卒者まで、多くの人が自分を「中流」だと考えている社会である。「失われた30年」により格差は拡大しているものの、人々の意識の上ではまだ格差の小さい社会であることには変わりはない。
だから、私には「いいところの大学」に通っている学生がだめライフを名乗ることにはあまり違和感を持っていない。確かに経済的にも文化的にも「いいところの大学」の学生が恵まれていることは厳然たる事実だが、意識の上では彼らは「中流」であり、「庶民」なのである。これは客観的な基準でもって「中流」「庶民」と規定しているのではなく、あくまで当人の主観のうえでの話である。主観的には「中流」で「庶民」ならだめライフに惹かれることも理解できるだろう。
そもそも、経済的に余裕がなかったり、学歴の低い人しかだめライフを名乗ってはいけないのだろうか。そうした、相対的に恵まれていない人を基準としてだめライフを批判することはお門違いのように私には思える。
人にはそれぞれ事情があり、考え方も抱えている問題も千差万別だ。余裕のない人には余裕のない人なりの、余裕のある人には余裕のある人なりの「だめ」がある。経済的に余裕があれば精神的にも余裕があるとは限らない。
かつて「モラトリアム人間」という言葉が飽食の時代の病理として取り沙汰され、「昔は貧しくてそんなのんきなことは言っていられなかった」などと言われたが、そんな批判に何の意味があるのだろうか。時代によって、個人によって、問題の質が異なるのは当然のことだからである。
それと同じように、だめライフにおいて、階級や階層、属性で人を一括りに判断することに意味はないと私は思っている。
「これはだめである」、「あれはだめではない」などと、他人様のだめライフに口を挟むのはナンセンスである。あなたはあなたの信じるだめライフを送ればいい。だめライフとは人それぞれ。100人のだめライファーがいれば100通りのだめライフがあるのだ。
そのように考えた時、私は、「大きな物語」へのある種のカウンター・カルチャーがだめライフであると考えている。
(近代)社会という単位で考えれば「大きな物語」は建前として理念として必要である。そうでなければ「社会」は廻らないからだ。倫理・道徳から、教育、医療、政治などの制度化されたシステム、果ては文化まで、多くの人々に共有されている普遍的で支配的な正統性は「社会」にとっては必ず必要である。それはとりわけ「少数派」の人々にとっては過酷な暴力にもなり得る。大きな物語とはこの社会の「多数派」の信じる物語だからである。
だめライフは、言わば社会が押し付けてくるこの「大きな物語」を相対化するための道具である。
とはいえ、だめライフがカウンター・カルチャーというのはあまりに大袈裟な表現かもしれない。だめライフはあくまで一人ひとりの「個人」のためのものであり、個人がこの社会を生きるためのお守りくらいの意味でしかないからである。
しかし、これもまた「だめライフ東京の考えるだめライフ」であって、あなたがこの定義を信じる必要は必ずしもない。反対意見はあってもいい。ポストモダンと言われて久しいが、だめライフもまた、「無限の相対化のゲーム」に好むと好まざるとにかかわらず参加させられているのだから。
「だめライフの定義」とは何かということは常に問われ続けているのであり、たとえ、だめライフの一応の発起人である私が「だめライフの定義」を提示してみせたところで、「いいやそれは違う」とちゃぶ台をひっくり返されてしまう。こうして「だめライフの定義」なる論争は永遠に繰り返されるのだ。
もっとも、最初にだめライフを厳密に定義付けなかったのはほかならぬ私である。それは「だめ」と言っているのに厳密な定義なんてしてしまったらそれはもう「だめ」ではないだろうという考えがあったからだし、「だめ」という言葉の持つ普遍性や多様性を考えてのことでもあった。
「だめライフの定義」が永遠に議論され続けるのは面倒くさいことであると同時に、ある意味私が望んだことでもある。だから今後も議論され続ければよいと思う。
私はこれからも、私の信じる「だめライフ」を送り続けるまでである。
みなさま、よきだめライフを!