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ニートの〈光〉

ゆるふわ無職

絶望。ニートの人生とは、絶望との対峙に尽きると言っても過言ではない。働いても、働かなくても、働かずに済んでも、我々は絶望を突き付けられることになる。

■ 労働の絶望

 まず、始めに直面するのは、労働の絶望である。毎日、毎日こんな生活が続く――朝から不快なアラーム音に叩き起こされ、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に押し込められ、不快な上司や顧客に気を遣い、何の役に立っているのか分からない業務に従事し、クタクタになって家に帰宅した後は、工業的に生産されたスーパーの弁当を食って、受刑者のようにシャワーを浴びて寝るだけ。土日が休みだったとしても、土曜日は溜まった疲れを癒すためにぐったりと横になり、日曜日は明日から始まる労働を想像して憂鬱に終わる。

 信じられないことに、この生活は45年も続く。日数に変換すれば、約16425日である。このゴールが見えない果てしないマラソンに、そして人生のほとんどが労働に費やされることに、どうして絶望せずにいられるだろうか? 少なくとも、私は参加賞として与えられる「正常」という称号のためだけに、このレースに耐えることはできなかった。

■ ニートの絶望

 こうして私はニートになった。次に訪れるのは、ニートの絶望である。

 初期の頃、ニートは非常に楽しい。とてつもない退職の解放感。積んでいたゲームや漫画の消化。好きなだけ寝て過ごせる生活。こんな毎日がずっと続けばいいと思うものだ。

 だが、ニートも中期に突入すると、現実的な問題が立ちはだかってくる。じわじわと預金口座の金額は減っていき、家族や友人からも冷たい目線が向けられる。空白期間は増え、キャリアはどんどんボロボロになっていく。このまま就職できなかったらどうなるのだろうか? ホームレス? 路上で野垂れ死に? 嫌だ。そんな孤独で惨めな死に方は恐ろしい! 誰にも相談できないまま、深夜3時にニートは布団の中で怯え続ける。

 これがニートならば誰しもが経験するニートの絶望だ。この絶望には、二重の構造があるといってもいい。それは、このままニートを続けるのも地獄だが、再び就職をするのも地獄というダブルバインドである。進むも地獄、退くも地獄。それならば、ここで全てを終わりにしてしまおうと考える人が一定数現れるのも何も不思議なことではない。かくいう私も、何度自死を考えたか分からないものだ。

■ 無の絶望

 ニートの絶望を体験した人間は多くの場合、労働の絶望に回帰していく。お金の問題や世間体など様々な理由があるだろうが、「それ以外ない(資本主義リアリズム!)」と諦めた表情で労働マラソンの中に戻っていく。

 だが、中にはニート、もしくはニートのような生き方を選択し続ける人々も存在する。実家がそれなりに裕福なのか、最低限だけバイトをする寝そべり族の生活を選択したのか、貯金を投資してFIREに成功したのか、生活保護を受けることにしたのか、ビジネスニートとして成功したのかは分からないが、とにかく様々な要因によって「(フルタイムで)働かなくてもしばらくは生きていける」という状態に落ち着いた人間はいるようだ。

 私、ゆるふわ無職もそうした人間の1人である。実家の子供部屋に住んだり、人の家に転がり込んだり、バイトを週3日だけしたり、ニート系の電子書籍を販売したりして、約8年ほどニートのような生活を継続している。おそらく、今後もこのような暮らしを続けていくことだろう。

 では、こうした生活に落ち着くことができれば、絶望から抜け出すことができるのだろうか? 何の不安もない平穏な生活を手に入れることができるのだろうか? いや、そうではない。労働の絶望とニートの絶望を経過した人間は、最大にして不可避の絶望――無の絶望に晒されることになる!

 無職とはよく言ったものだ、とよく私はしみじみと思う。無職とは、単に「職が無い」ということだけではない。「無を職る」こと――すなわち、〈無〉と向き合うことを宿命づけられているのだから。

 〈無〉とは何か? それは一言で言えば、「全ては無意味である」ということだ。我々は無意味に生まれ、無意味に死んでいく。この世界は無意味に誕生し、無意味に終焉を迎える。あらゆる存在は無意味であり、何をしても意味がない。もっと具体的に述べてみよう。あなたは100年後には必ず死ぬし、人類も5億年後には太陽膨張の影響で確実に滅亡する。そして、いずれ宇宙も1400億年後(以上先)には終焉を迎えることが判明している。何をしても結局全て〈無〉に帰してしまうのだ。どんなに愛する人と家庭を築いても、どんなに歴史的な偉業を成し遂げても、どんなに美しい芸術作品を創り上げても、みんな消えて忘れ去られてしまう。ああ、〈無〉よ! こんなに残酷でせつないことがあるだろうか?

■ 〈無〉という紛れもない現実

 ニートや無職はこんな説教をされることが多いはずだ。「現実から逃げるな」と。こういった輩には、こちらから逆に紛れもない現実を教えてやりたくなる。「お前は数十年後には確実に死ぬ。そして、やってきたことも、存在していたことも、いずれ全て忘れ去られて無に帰す。それがどうあがいても逃れられない絶対的な現実だ!」と。

 私に言わせてもらえば、毎日To Doリストをせっせと消化しているサラリーマンも、毎日デイリークエストをせっせと消化しているネトゲ廃人ニートも、本質的には何も変わらない。〈無〉から目を背けて、まるで自分の存在や活動に意義があるように思い込み、そう振舞っているだけにすぎない。世の中の大多数の人間こそが、「現実から逃げている」のである。

 しかし、こうして考えてみると、国や社会が提供する労働というのはある意味「配慮された処置」だったのかもしれない。目の前に与えられたアメとムチ(娯楽と労働)に一喜一憂しながら、小劇場の中に閉じこもっていれば、絶対的な〈無〉という現実を忘却することができるのだから。剥き出しの〈無〉と直面してしまった人間は、大抵の場合まともではいられない。以前、私はこのような考えが頭から離れなかった。「だからなんなんだ」と。いい天気の日に散歩して気持ちよかった。だからなんなんだ。スーパー銭湯に行ってゆっくりくつろいだ。だからなんなんだ。定食屋でおいしいチキン南蛮を食べた。だからなんなんだ。近年では「冷笑」というワードがSNSを中心に拡散されているが、認知レベルで〈無〉を実感することは究極的な冷笑の随伴にほかならない(ニートマガジンのメンバーであるろっさんは冊子版Vol.1でまさにこの現象を「俯瞰的冷笑」と命名していた)。もはや、冷笑することすら無意味。冷笑を冷笑する無限の後退にくらくらと眩暈がする始末だ。

 私は意味もなくこの世界に投げ出され、無根拠に存在し、いつか絶対に死んで、全て忘れ去られる。これを絶望と呼ばずに何と呼べばいいのか? 働いても絶望し、働かなくても絶望し、働かずに済んでも絶望する。ニートの人生とは、絶望との対峙に尽きると言っても過言ではない。ニートに救済はあるのか?

■ 私の考える救済とは

 ニートに救済はあるのか?――このメインテーマに突入する前に、私なりに考える「救済」について論じてみたい。私にとって救済とは、条件付けられた幸福ではない。絶対的な幸福を指す。

 まず、条件付けられた幸福とは何か? それは、名前の通り、ある条件によって発生する幸福のことである。例えば、春の日差しの中、河川敷を散歩していたら、ポカポカとしていて心地よかった。このような幸せは、典型的な条件付けられた幸福である。「そういう幸せこそが本当の幸せじゃないか」と主張する人も多いかもしれないが、私にとっては違う。なぜならば、条件付けられた幸福は、潜在的に条件付けられた不幸を含んでいるからである。

 例えば、気温がポカポカとして心地よかった。それは私が、灼熱の高温に晒されれば皮膚が焼けただれ、極寒の低温に晒されれば手指が凍てつき壊死することを意味する。例えば、ご飯を食べたらおいしかった。それは私が、猛毒のスープを飲まされたら全身の穴から血を垂れ流してのたうち回ることを意味する。例えば、私の顔を好きだと言ってくれる人がいた。それは私の顔が事故でグチャグチャになったら視界にも入れたくないことを意味する。

 つまり、条件付けられた幸福とは、それが反転してしまえば、条件付けられた不幸が発生するということの証左にほかならない。私にとって、そのような幸福は実存的な救済とはなりえない。

 では、その一方で、私が考える救済とは何なのか? 救済とは、絶対的な幸福――どんな条件であれ、どんな環境であれ、どんな状況であれ、私は大丈夫であると確信できることである。墜落する飛行機の中でも、余命を宣告された病室の中でも、死刑執行前日の独房の中でも、私は幸福であると確信できることである。これが私の考える救済だ。

■ 第一の救済 処刑室の信仰

 救済とは、どんな条件であれ、私は大丈夫であると確信できる絶対的な幸福である、と私は述べた。では、そのような幸福は何を根拠にしているのか? それは物質世界を超えた、超越的な領域から与えられていると言うほかないだろう。このような救済を〈光〉と呼称することにしよう。

 ニートに与えられる〈光〉の救済――まず、第一候補として真っ当に挙げられるのは、信仰を持つことである。神や仏に帰依すれば、あなたの存在は無意味ではなくなる。

 そもそも、なぜ我々は〈無〉に絶望してしまうのだろうか? それは意味がないからである。生まれてきた意味も、行為をする意味も、死後の意味も、あらゆる意味が存在しない世界では、何をしても底なしに虚しさが響き渡るだけである。しかし、神仏に帰依すれば、神や仏があなたの存在に理由を与えてくれる。あなたが生まれてきたことには意味があるし、正しい生き方も示してくれるし、死後の召天や往生も確証してくれる。永遠に〈無〉の中で忘却されることもない。あなたがやってきた良いことも、悪いことも、すべて神や仏が覚えていてくれる。

 ここで明確に言っておきたいのは、私は決して悪ふざけ、もしくはスノッブな人間の持ちネタとして、信仰を勧めているわけではないということだ。最終的に人間を救済してくれるのは、やはり宗教だけなのではないかと、頻繁に思い詰めるほどである。このことについて考えるとき、私が真っ先に思いつくのはコルベ神父のエピソードだ。

 コルベ神父は1894年にポーランドで生まれたカトリックの神父である。第二次世界大戦中、ポーランドはナチスドイツに占領され、コルベ神父は「修道院でユダヤ人を看護した」「発行紙でナチスを批判した」などの理由で逮捕されてしまう。そして、かの悪名高いアウシュヴィッツ強制収容所に送られてしまうのであった。

 その後、コルベ神父は過酷な強制労働に就かされていたが、ある日事件が発生する。コルベ神父が所属していた班から脱走者が出たのだ。炎天下の中、囚人たちは直立不動で整列させられる。姿勢を崩したものは容赦なく殴られ、力尽きて倒れたものはゴミ処理場に送られる。しかし、結局脱走者は見つからず、連帯責任として班の中から10名が処刑されることになった。無作為に囚人番号が決定されて点呼が行われる。その結果、コルベ神父は番号を呼ばれなかった。助かったのである。しかし、処刑に選ばれた近くの男がこう泣き崩れた。「ああ、妻と子供に会いたい……」。それを見たコルベ神父は手を挙げ、こう申し出た。「私はカトリックの神父です。もう若くもなく、妻も子供もいませんから、この方の身代わりになりたいと思います」。コルベ神父の申し出は許可された。

 脱走者が出た場合の処刑方法は非常に残酷なものだった。10人を座る間もない狭い部屋に押し込め、水も食べ物も与えずに、じわじわと飢え死にさせる餓死刑である。この刑が実行されると、部屋からは聞くに堪えない悲痛な嗚咽が何日間にも渡って響くという。

 そして、ついにコルベ神父たちも処刑が実行される。 だが、この時はいつもと様子が違った。コルベ神父が、同じ部屋の囚人たちの為に祈り、讃美歌を歌ったからである。そして、他の囚人たちも祈り歌った。その処刑室からは、叫び声や呻き声ではなく、穏やかな祈りの声が響いたという。彼は処刑室を聖堂に変えたのである。1941年8月14日没。47歳だった。

 ここで、私はどこか遠い国の感動的な話として、この話を紹介したわけではない。我々に今起こっている切実な問題として、この話を紹介したのである。まさに、我々も「いつか必ず死ぬ部屋」に閉じ込められていると言っても過言ではない。先ほどの処刑室に比べて、ちょっとだけ空間が広く、ちょっとだけ期間が長いだけである。

 我々は生まれる場所も選べず、苦しみに振り回され、逃れられない死を迎える。そんな絶望の中で、我々にできることは、ただ祈ることだけなのかもしれない。

■ 第二の救済 剥き出しの世界

 ニートに与えられる〈光〉の救済――次に、第二候補として挙げられるのは、世界を通じて〈光〉を体感することである。

 話を蒸し返すようだが、ニートはよく「現実から逃げるな」という説教をされる。だが、そういった説教を垂れる人物の言う「現実」とは、資本主義的なモノサシによって分別された、極めて噓っぱちなフィクションの世界の中で生きることにほかならない(なぜ1万円札という紙切れを破り捨てるだけで、あなたはそんなにも慌てふためくのだ?)。私に言わせてもらえば、そういった態度こそが、最も「現実」から遠い在り方である。そろそろもう茶番はよいではないか。ここからは、本当の「現実」の話をしよう。

 ニートは〈無〉と向き合う宿命がある。あらゆる存在の無意味さに、一度は深刻な絶望を体験するものである。だが、その「無意味」というのも、よく考えてみれば、1つの意味付けではないだろうか? ただ、「無意味」や「meaningless」といった言語を張り付けているだけではないだろうか? そうした最後のラベリングをも取り除いてみると、剥き出しの生々しい世界が顕現れる。そのような光景は、もはや神秘としか形容しようがない。その圧倒的な存在感にただ唖然とするばかりである。これはなにも、自然遺産の絶景や荘厳な宗教建築を指してそのように言っているわけではない。あなたの今見ているこの景色、変哲もない日常の風景こそが、即神秘なのである。我々はこの世界を通じて、〈光〉を体感することができる。全てのヴェールを引き剝がせば、そこに超越的な救済があったことが理解できる。この紛れもない現実、世界こそが、〈光〉の顕現なのである。今この瞬間にも、我々は全てを与えられている!

 なんだか仰々しい演説になってしまったが、考えてみれば、このような世界の捉え方は別に目新しいものではない。アニミズム(あらゆるものに霊魂が宿っている)だったり、汎神論(現実は神性と同一である)だったり、草木国土悉皆成仏(全ての存在に仏性がある)だったりと、類似した言説は過去に多く存在する。というよりも、我々は元々〈光〉の中にいたはずなのだ。世俗における分別やモノサシが、それを覆い隠してしまっただけの話なのである。

 とはいえ、いきなりそんな話をされても、この世界に溢れる〈光〉の実感を得るのは難しい。ここで1つレッスンをしよう。私が思うに、凝り固まった価値観を取り除き、剥き出しの世界を味わうには、散歩が一番ちょうどいい。なんと言っても散歩には目的が無いのがすばらしいところだ。どんな道を歩いてもいいし、どんな時間まで歩いてもいいし、どこまでも歩いてもいい。私の肉体は、そして世界は、目的や効率といった価値判断から放たれ、ただ〈光〉の中で自由に遊んでいる。デコボコの道でも結構。曲がりくねった道でも結構。急な上り坂でも結構。もはや、駅から徒歩何分だとか、地図の最短ルートだとか、歩くとポイントが貰えるアプリだとか、そんなものはどうでもいいのである。

 もちろん、世間の人々だって歩くだろう。だが、それは目的のために歩いて移動しているだけであって、本当にこの世界を逍遥しているわけではない。彼らが見ているのは、色眼鏡で補正された資本主義ゲームの世界である。改めて問うてみたい。あなたは本当に「現実」を見たことがあるのか? 「現実」はそんなつまらないものではない。人間の理解を超えた、神秘の〈光〉である。

■ 第三の救済 交流の〈きらめき〉

 ニートに与えられる〈光〉の救済――最後の第三候補は、他者との関係から生まれる瞬間の〈きらめき〉を永遠に刻むことである。無職の伝統に倣って、だめ連の用語を引用させてもらうならば、「交流」の中に永遠性を見出すことである。

 前半でしつこく述べたように、我々は無意味に生まれ、無意味に行為し、無意味に死ぬ。それはさびしくて、せつない。私も臨終の際には、「私の人生とは、なんだったのだ?」と絶望しそうになることだろう。だが、そうした無意味に思える人生を照らしてくれるものがある。陳腐な言い方になってしまうかもしれないが、それは思い出だ。

 私は元々引っ込み思案な性格である。サークルや会社の飲み会でもいつも端っこにいたタイプであるし、一時期はひきこもりをして暮らしていたダウナー系ニートである。だが、このニートマガジンで行ってきた交流は、どれも私の人生に強く刻まれるような楽しさだった。池袋の居酒屋「大都会」で交流したことも、朝まで大阪城公園で交流したことも、西池袋公園の滑り台で横に並んで交流したことも、蒸し暑い夜に不忍池のほとりに座り込んで交流したことも、久屋大通公園の芝生でサークルを作って交流したことも、昨日のことのように――いや、138億年前のことのように、1400億年後のことのように、思い出すことができる!

 神や仏の〈御光〉のように格式高いものではない。だが、真っすぐな人間のぶつかり合いによって生じた〈きらめき〉は、この生に刻まれて、永遠に我々を照らしてくれる。このとき、瞬間は永遠になるのだ。

 別に、私は「結局ニートは社会に出ろ」という陳腐なアンサーを提示するつもりはない。だが、部屋の中に引きこもっていても、自我がグツグツと灰汁を出しながら煮詰まっていくだけで、よほどの独覚でもない限り、救済を得ることは難しいと思う。世界に繰り出して、他者と交流する中に、生を照らしてくれる〈光〉があるのではないだろうか。ニートが具体的に交流を得る方法としては、インターネットを用いるのが一番簡単で手っ取り早いだろう。働きたくないのなら、正直に働きたくないと叫んでみよう。きっとあなたに賛同してくれる、気心が知れた仲間ができるはずだ。また、私はこの「冊子版ニートマガジンVol.3」の別記事に「ビジネスニートマニュアル」を寄稿した。これは世間に増加するクソどうでもいい無職に対する皮肉であり、その一部は私が行ってきたことに対する懺悔でもある。だが、それでもある意味で実践的な内容を含んでいることは否定しない。部屋に引きこもりながら、死んでしまうぐらいだったら、ビジネスニートにでもチャレンジしてみようじゃないか。一緒にニートを騙ってお金を稼ごう。その他では、あなたの考えるニート論をニートマガジンに投稿してくれてもいいし、ニートマガジンに対する批判を長文で送ってくれてもかまわない。面白かったらぜひ掲載したいものだ。右往左往にグダグダと語ってしまったが、結局、私が言いたいのは「一緒に遊ぼう」ということである。私が一方的に何千文字も話しているだけでは面白くない。ぜひ、次はあなたの話を聞かせてほしいものだ。

■ まとめ

 それでは、最後に今回の内容をまとめていこう。まず、ニートには三段階の絶望がある。初めに、地獄の労働生活が定年退職まで続く労働の絶望。次に、将来の破滅と労働の再参加を天秤にかけられるニートの絶望。そして、全てが無意味であることを突き付けられる無の絶望であった。ニートの人生とは、絶望との対峙に尽きる。果たしてニートに救済はあるのか?

 これに対して、私が提示したアンサーは三通りであった。まず、第一は信仰を持つことである。信仰を持てば、神仏があなたの存在に〈光〉を与えてくれる。続いて、第二は剥き出しの世界に触れることである。世界そのものを通じて〈光〉を体験すれば、あなたは既に救われていることが理解できる。最後に、第三は交流の〈きらめき〉を永遠に刻むことである。他者との関わりから生まれた一瞬の火花はこの世界に刻まれ、どんなときも私を照らしてくれる。

 ニートに救済はあるのか? いや、ニートだからこそ救われることができるのである。深い絶望を体験した者ほど、それは反転して、偉大なる〈光〉の救済となるのだ。