散歩・放擲・七逃・念佛
安眠計画
自然って生きてるよな。このようにだらだらと生活することも〈自然〉の一部なんや、という味わい尽くせぬ妙味に打ち震えながら日々生きてる、息してる。
呼吸。吸って吐くことを観じる。不随意にリズムを刻むものを観察し、調律する。深く深く吸って胸の中に溜め、思いっきり吐く。肉体という大海原を絶えず吹き渡る風。母なる海と父なる山から産まれた俺なる俺。極大の水溜まりから生じた微小の一滴。そのどちらも俺ではなく、そのどちらを俺としてもいい自由。究極の解放。いつでも帰れる宇宙游泳。
あるいは経験する主体と意識する主体。われわれの今・この眼前に広がっている真如=現実を「経験」することは、悟りでもしない限り不可能ではないのか? われわれが経験できるのは、世界の総質量に比すれば、芥子粒よりも小さなタンパク質の塊が生み出す錯覚、意識だけだ。
かつて心理学は主知的な「流派」が栄えていたが、ヴント以降、主意説が勢力を占めるようになった。意識はいかに単純であっても必ず構成的であり、内容の対照というのは意識成立の一要件だ。もし「真に単純なる意識」があるとすれば、それは即ち無意識となる。この一点において、心理学の知識や臨床経験だけではすべての人を救うことなどできない(まずこの俺を救わない)と考え、心理士の道、院進を諦めた。その結果、多くの心理学者や精神科医が、たとえば森田療法が禅語を使ったり、マインドフルネスが脳科学的なエビデンスを得たりしていくように、信仰のエッセンスを自らの学域に取り込もうとするくらいなら、もうダイレクトに信仰したらええやん! と思い、心理学徒くずれから在家居士に転向した。
メビウスの帯が如く、自らを定義づける言葉は、自らのロゴスによってのみ参照できる(裏を返せばそのようにしか「在り」得ない)。
無限循環する自己参照。もしも宇宙が「在る」とするなら、それは俺によってのみ在る。宇宙と書いて宇宙と読む。同時にこの宇宙のどこにも俺はいない。矛盾しているようで、どちらも真である。再び呼吸に集中する。 自然って生きてるよな(文頭に戻る)。
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果たして充足理由律による正当化は、この徘徊する肉塊という「ナマの事実」を、原因と結果からなる円環の内側に閉じ込められるか?
叫びながら部屋を出る。右足、左足、右足。太陽、太陽、太陽。白昼堂々発狂寸前、毎日元気三十一歳。
この自己を認識の束と経験の総体だとすると、散歩は「現実」を、踏み込んで言うと「俺そのもの」を拡張する。
散歩ルートの数だけある現実。歩数にともなって希釈される俺。誰かにそれは誇大妄想だとか、現実を見ろだとか云われるたびに、散歩ルートに咲く季節の草花や川の流れ、潮騒、向こう側に聳える山、ベンチでの瞑想、頭を揺らしながら歩み寄ってくる鳩、照るも曇るもあまりにも自由な空などの風光を思い出す。
俺たちは常にお手製の「現実」をやっている。少なくとも、やろうとしている。
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誰も哲学できない彼岸がある。「直観においてはどんな内容もでき上がった全体として表されるが、われわれはさしあたって、その内容がどのようにして生じたのか示すことも発見することもできない。」ユング。神秘の天幕のさらに奥にある神秘。決死の覚悟で彼岸に向かって呼びかけていた。と、思い込んでいたら、彼岸が俺を哀れんでいた。死は決して存在の終わりではない。生物学的な死によって精算されるものなどおよそ何もない。俺という現象が、その所業に従って、次の状態に移行するだけ。
確かにこの世界は理不尽だ――あらゆる生誕は胎児の合意を取ることもなく、われわれの生命はすべて強制からスタートしている――が、幸福な方に理不尽なのだと確信する。南無不可思議光佛。 南無阿彌陀佛。南無阿彌陀佛。南無阿彌陀佛。
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屍体は自然に還る。自然は生きている。ならば屍体も生きていると言うのは過言ではないこともないような気がする。と書いてしまうのは過言ではなく失言である。不妄語戒、既に億兆回破ってる。
終わることのない雪遊び。絶望と希望の相転移。言辞的かつ衒示的消費。
ヒトに限らず、この地球上のすべての生物の細胞が何らかの活動をするとき、ATP(アデノシン三リン酸)という物質を分解することによってエネルギーを取り出し、活動しているらしい。このATPは、あらゆる生命が採用している「生体エネルギーの基本通貨」と呼べるもので、つまりわれわれは何もしていなくても、常に何かを代償にして、その瞬間々々に必要な何かを贖い続けている。ただ生きているだけで金がかかるという事実は、生命がどのように生成し、消滅するのか、直裁に言うなら我々はどこから来て、消滅するまでの間何をなすべきなのか(せざるをえないのか)を考えるにあたって、多くの人にとって共有可能な説得力のあるモデルのひとつなのだろう。何かを得るために何かを支払う手続きを停止するには、死以外にはありえない。そしてその死すら、勝義諦の光に照らして覩れば、単なる終わりではない。
大好きなあの子も憎いあいつも、もう会うことのないあの人も、俺というスクリーンに映し出される限り一切は生きている(とも言える)し、はじめから幻覚のようなものだったとも言える。どんなに社会に大きなインパクトを与えるような意義深い人生を送ろうが、あるいは深い山奥で誰に知られることもなくひっそりと幽玄な真理を感得しようが、命の続く限りそれは雪遊びであり、白昼夢であり、果敢ない幻のようなものである。
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グローバル市場にディスプレイされるお父さんを贖ったのは一体誰だったのか、教えてくれる人はこの産業社会にはいなかった。誰が触ったかも分からないような汚い紙や錆びた金属片を手渡すと、誰もが笑顔で自らの骨を折ってくれるのはなぜなんだろう。何にでも交換可能だということは、なんでもないということの裏返しではないのか? みなが真っ暗な空洞に向かって祈っている。
資本家は彼らなりの真理に従って、彼らにしか視えない「現実」をやっていて、賃金だけではなく「あなたを必要としている」という態度や言葉を代償に、あなたを贖っている。何かを支払うことで何かを得る営みは、多くの人にとって具体的かつ即物的でありつつも、同時に存在の神秘の最奥に触れる唯一の光なのかもしれない。この視点(二諦)を失えば、仏教は了解不能な空論に終始してしまう。彼岸を指向する限り、仏教者はみなが共有している(と思い込んでいる)現実なる物語や、常識を含みつつも超越していかなければならない。
仮にもし俺の「これ」まで贖えると勘違いしているなら是非とも一晩中喧嘩したいところだが、ときに過労死という殉教を伴うほどの深刻な祈りや遊び――彼らにとっての現実を、大上段から道徳的に糾弾するのは簡単で、つまらない。夢の中で夢を視ている人を嗤うよりも、できることなら一刻も早く目を覚まして、朝靄のなかをみんなで遊歩したい。
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思想が強すぎて日常生活に支障を来している。
「信教の自由」は死に体の寺社仏閣ではなく、資本家のためにあるのではないか。無償の愛などおよそこの「現実」には存在しない! お前が仮に現実と呼ぶ「これ」をひとつの細胞レベルまでミクロに、あるいは太陽系すら小さな点になるまでマクロな視点で眺めてみても、すべてのものは常に何かを支払うことでしか何かを得ることはできず、絶えず変化し、いずれすべて死ぬということしか分からない。
何もかもが死に向かって全速力で疾走しているという事実を、労働に没頭している瞬間は忘れてしまえる。あらゆる営利法人は高度に偽装された宗教法人だ。
スイッチひとつで部屋中隈なく照らすことができ、百三十八億光年先にあるという宇宙の果ての光まで目にするやもしれぬ現代こそ、釈尊やイエスや、ムハンマドの時代よりも濃い絶望的な無明が拡がっている。しかし闇の濃度が高くなるほど、唯一の信仰の光はより強く輝く。かつては出世のためのツールや人心掌握に利用されたドグマも、今や純粋で内的な動機によってのみ駆動している。世俗的な価値観(世俗権力と言ってもいい)が強まるほど、仏意は自らの純粋性を洗練させる。 あ、これは宗教とかじゃなくて、心の科学であり、哲学なんですよ〜笑(こういう態度って軽やかではあるけど、個々の自由な認識を一意に定めることを強いているような気がして、絶対にどちらかが発狂するまで抗ってやろうという気にならん?)
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狂う春、游ぶ夏。揺れる秋、逃げる冬。こんな狂った寒さの国からは早く逃げよう! 台南の冬は、正しく天国みたいなあたたかさだった。七逃。
場の力が神をつくり、神が人の内側を治療する。神とは場が人を癒す変数定義やメソッドを引き継ぐプログラミング・パラダイムであり、またそのスーパー・クラスそのものだ。西方に阿弥陀如来の浄土があって、南海に観音菩薩が坐すように、場と神格は強固に結びついている。
もちろんこの記事を読んでいる無職諸賢のいる場にも神は坐しているし、移動によってそうした土地神や産土神、ゲニウスの神域から切り離されることで、新たな神を発見することができる。これまで「自分」だと思い込まされていた意識や肉塊は現象へと昇華され、形式的な数理モデル化もシミュレーションも困難な確率論的複雑系的人生になんとか苦し紛れに意義を見出していた主体は、バラバラに解体される。
散歩することで「自己」が狭小な部屋の外部へと拡張するあの感じを、数百年の時間的隔たりと、日本を飛び出すほどの空間的スケールで没入するイマーシブな巡礼であり、原義の異邦・放浪だった。
桃園国際空港から台北車站まで向かう捷運(MRT)の窓からは、冬にもかかわらず青々と生い茂る樹々を抱く山脈が見える。
市街地を群走する原付に乗った騎士たち。八角のにおい。夜市と檳榔。夢中の遭遇。海上を奔流する黄金。命懸けの航海。
ふつうの人々の生活にシームレスにあるふつうの祈り。「微熱」の島国を揺蕩う赤い天女。
神。あれは確かに観音菩薩の垂迹神だった。どうかかの国の人々がみな健康で、かの国が恒久に平和でありますように。
萬事乞求萬事成。
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「存在」するもののなかで「間違ってる」ものはひとつとしてない。すべてがあるべくしてある。ときどきこの世界の正しさに打ち震える――常に低きに流れる水、高原の清らかな空気、規則正しく運行する星々――自分も屍体になりさえすれば、この美しく静かで完璧な「正しさ」とひとつになることができるのだろうか。
ただ今はまだ、もう少しの間だけ、やかましく間違えていようと思う。ショートケーキのいちごやラーメンの煮卵、マンハッタンのチェリーのように、楽しみは最後までとっておく。
精神をざらつかせる微小なノイズに耳を傾けずに、聖なる習慣を臨終のときまで続けるということ。陰極まりて陽となる。どうしようもないくらい破綻しきった自分を、めちゃくちゃなまま如来にお任せする。
頭の中がうるさくなったら、なむあみだぶつとつぶやいて踊れ。放擲。
如来が呼んでいる。名を呼ばれたから、彼我の境を越えて往く。俺の救われたいという渇望よりも、絶対に救うという誓願に大質量が備わり(本願力)、その誓いの成就を識ったとき、南無阿彌陀佛と声に出した瞬間、十万億土の距離を越えて、その無限の引力に吸い寄せられる(現生正定聚)。
無上菩提はすべての時空間を救済する。手製のボートを自力で漕いで彼岸に往くのではなく、如来がここまで――貪りと怒りと愚かさの川を渡って、対岸に連れていってくれる。未来の無量の希望が現在のわたしに触れる。ニートに救いはある。
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じゅうぶんな休息によって内側から湧き出てくるとされる「本心からやりたいこと」が本当にない。まず「本心」がない。いくら休んでも火山から噴き出すマグマのように、煩悩がドロドロと湧き出てくる。あるいは環境によって、周囲の人に好ましい「本心」を自ら演出してしまう。「貢献すべきである」という感じは欲望というよりは、どうしようもなく義務だ。われわれは返すアテのない負債を負っている。アンチ・アンチワーク哲学。逆張りの逆張りの逆張りの逆張りの……なぁ、相撲しようや(涙)
やりたくないことはやりたくないし、やりたいこともそんなにない。「やりたいこと」が見つかったように振る舞える人たちから「仕事がつまらないのではなく、お前がつまらないのだ」とブルシット人間宣言されてる気がする。
被害妄想か? いやしかしグレーバーの労働観は、結局のところ勤勉でやりがいに溢れるホワイトカラーの人たちにとってはただの雑音でしかなく、また「マーケットの創出」など行わずとも人類史の早い段階から存在した単純労働――社会を維持・発展するためには必ず誰かがやらねばならないエッセンシャルワーク――から逃げることなく従事する誇り高き義務感によって立つ人たちにとっても、決して救いなどではなかったではないか。それどころか、かえってエッセンシャルワーカーたちを苦しめる「疎外」の感覚をブルシット(くだらないもの)であると矮小化してしまう。
古めかしい疎外概念の方が(それを採用するかどうかは措いて)、よっぽど労働者の苦境を言葉にできているように感じられる。仮にグレーバーが間違っていたとしても、くぼーまーがいいやつであることに変わりはないけど。
仕事はつまらない。労働は苦痛だ。吐き気がする。「人生」がこの裸の猿の認識の束をタイミング良く刺激し、快を増大させ不快を低減する音ゲーのようなものであるなら、どうぞ俺抜きでやっててください。
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「ニートに救いはあるのか」という記述問題に答えるとき、解答の過程を世俗諦ベースにしても勝義諦ベースで述べてみても、最終的に「ニートは持続可能な変性意識状態を完成させて己に克て」という結論に至ってしまう。俺たちはたった一つの真如たる現実を、バラバラに割れたガラスの破片を通して視ている。今、この「仕上がり」なら早晩激ヤバ老害確定ですやん。説教くさすぎる部分をできる限り削っていくと(それでもこの有り様なわけだけれど)、自選の詩集のようになった。ありえないほどうるさい詩。デカすぎるポエムは身を滅ぼす。「社会」の中からボワっとインチキおじさん登場。
お前を愛したい。殴り合いたい。彼我の境界を越えたい。お前はお前のままでいてほしいし、あわよくば俺の影響を受けてほしい。大きな川の流れのように、変わらずに変わっていってほしい。ああもうなんでもいいから幸せになってくれ!
俺はお前を本当の意味で救うことはできない。世俗のルールに則って有限のリソースを代償に常識的に贖うか、真諦に従って西に向かって念佛することしかできない。厭穢欣浄。和光同塵。
もし「この宇宙は全部、俺!」みたいな輪廻グルグル自意識遊びや、ハンドメイドの「現実」に飽きたり疲れたりしたら、一切を放擲して、七逃して、それでもだめなら、もう死ぬと思ったら、なむあみだぶつと称えてみてほしい。
蓮台に乗って浄土にいこうね。
合掌