救済スープの作り方
白崎
または、〈カミ〉を持たない者のこころ安らかなる在り方とは。
はじめに、「救済」という独特の語彙について、本文章内で規定する含意をあきらかにしておく。
「救済」、それは「にんじん」とも「玉ねぎ」とも違う。「購買」「角切りにする」「炒める」「掬う」とも異なる。定義としては以上だが、それではあんまりだ。もう少し詳しく突き詰めてみると、「救済」という言葉が想起させる浮遊感には、私の身体的融和性が欠落している。
おそらくなんらかの宗教を信仰する者にとっては経験の想起を伴い腑に落ちる言葉なのだろうが、受動的無神論者――おのずから信念によって神殺しに手を染めたわけではなく、生まれてこのかた啓示なる機会を与えられなかった子羊たち――にとっては、日常使用する言葉とは訳が違う。
なにも分かっていないところに新たな謎を導入して恐縮だが、エマニュエル・レヴィナスの命題を引用する。『日常生活とは救済への気づかいなのである』。 なるほど、私はこの異邦人語をうまく訳すための手立てをもたない。が、かくあれ「救済」という言葉は、精緻なるまでに磨き上げられた理性のみならず、頽落とされる日常生活より接近しうる可能性がある。日常生活とは救済への「気づかい」なのらしいから。
「気づかい」という言葉が妙に引っかかるが、ともあれ、ゆえに、私はこの手がかりの掴めない語彙について、「スープの作り方をハウトゥーする」という本文中において、生起的に意味づけを行なっていくことにする。あなたには、宙吊りの状態に置かれるこの語彙のことを、一旦許容していただきたい。私たちは今から「救済」を気づかっていく、という目標を共有しておく。
古代中国では君子が嗜むべき六つの技能(礼儀・音楽・弓術・馬車の操縦・書道・算術)を「六芸」として定義した。私もそれに倣い、ニートの六芸を提唱する。それは、「散歩・音楽・思索・農耕・釣り(狩猟)・そして料理」である。なお、これは、身近なニートたちの顔を思い出しながら適当に思いついただけなので諸説ある。そもそもこういう能力平均化標語の提起こそ私たちが憎んできた画一化のシステムを冗長するのでは、という疑念が頭をもたげてきたが、本題と脱線するので一旦ここで強引に仮定する。
なんであれ、ニートは料理をするべきだ。天井しか眺められぬとき、呵責に苛まれて身動きが取れないとき、料理をすることは気晴らしになる。
べつに凝ったものを作る必要はないし、ともあれそれが非日常であるうちは活動の真価になり得ていない。それは三日坊主の筋トレに凋落している。ニート六芸における「料理」とは、その行為が、生活に浸透した状態を差す。だが、まずは、なにも難しく考えることはない。料理とは、適当に切った食材を鍋に放り込んで、火が通るまで煮込んで味を整えるだけでも結構さまになるものだ。
今回は私と一緒に「救済スープ」を作っていこう。ちょうど手元に『レヴィナスの時間論 「時間と他者」を読む』(内田樹)があったから、これをレシピ・ブックとする。
以下、特に断りがない場合は、『』内は本著からの引用とする。
【用意するもの】
- 心理的安全性が担保されたキッチン
- 鍋
- 包丁とまな板
- 塩胡椒
- 買い物に行く元気
- (あれば)ハンドブレンダー
◆
まずはスーパーまで買い物に行く。冷蔵庫の中に萎びた野菜の残骸があるよという人はその限りではない。
私たちがまず向かうべきは見切り品コーナーである。そこには、選ばれることなく捨てられゆくさだめの者たちが並んでいる。元気なく萎れていても煮込んでしまえば問題ない(たぶん)。蕪、インゲン、大根、小松菜、キャベツなどなんでもいいが、なんとなくスープにしたときに美味しそうで、とうぜん苦手意識がない野菜を選ぶ。
本日の特売品コーナーを眺め、旬で安い食材を調達してもいい。これが食べたいと直感するものを選ぶのが重要だ。それでも食指を動かされないときは、とりあえずじゃかいもと玉ねぎ、それから人参もしくは南瓜、あるいは薩摩芋あたりを買っておく。
割引シールの貼られた、他の人間に選ばれなかった者たち。もしくはあなたの冷蔵庫の中で今まさに息絶えんとしている者たち。これらの物質は、ギターや辞典と異なり、嚥下をすればただちに消化を始めこの生命を維持する。なくてはならないもののはずなのに、今まさに目前で捨てられようとしている。存在を諦めているようにも思える。値引率の書かれたシールは、あたかも地上から消滅する使命を与えられた烙印のようだ。その豊穣な特性をどこにも働きかけられないまま廃棄物と化す。
私たちは頻度の差はあれど他でもない私たち自身によって、豊穣な特性を労働させられないままに消滅の使命を背負わされる。抑うつ、希死念慮、無力感諸々。『自分が存在すること、それ自体がもたらす不快』。行動主義や薬物療法で癒える魂があるならば安上がりで結構であり、柳のように揺れるネクタイを締め続けることもできようが、(すくなくとも)私(たち)はその美しさを論う言葉を持てないからここにいる。私は「この生きるに耐えがたい恥の上塗りを重ねる自分という矮小なヒト未満のヒト」である私以外の方法では生きることができない。
シールの貼られた野菜たちは、己の怠慢で、もしくは誰かの介入不足で、もしくは環境のせいでここにいるわけではない。自己責任でも福祉の問題でも適応障害でもない。ナチスの統制下におけるユダヤ人のように、「ただ、そうであったから」、たったそれだけのために消滅の危機に瀕している。私たちが私たちであり、なおかつ自身に消滅の責任を感じるのは、「ただ、そうだから」である。そういう名前を与えれば救われるのであればそれでもかまわないが、自己責任でも福祉の問題でも適応障害でもない、と仮定してみる。
だからこそ、スーパーに赴く元気を復活させ、見切りコーナーの前で佇むあなたと、瀕死の野菜との間にはさりとて大きな違いは見受けられない。せいぜい「ただ、そうであったもの」と他の「ただ、そうであったもの」、この違いのみであり、あなたは「そう」でなければこれだったかもしれない。だからこそ労働をして小銭を持っていた頃の私ならいざ知らず、ニートの私は彼らに手を伸ばす。
これは共感ではない。朽ちていく他者におのれを投影させて同情をしたのでは断じてない。私と他者は明らかに異なるものである。そこに同一化はあってはならない。『他者とは、具体的には、弱者であり、貧者であり、「寡婦であり孤児」であり、それに対して、私は富者なのであり、あるいは強者なのである』。レヴィナスの代表的な命題であるが、つまり、私は彼の中に私を見い出したから手を伸ばしたわけではない。私とあなたの間には明確な差異が存在し、それは絶対的にゆるぎない断絶であるが、だからこそあなたに手を伸ばす。だれが「おのれと鏡像は物質的にはまったくの同質である」と宣うだろうか?
倫理的にそうしたほうがいいからそうするのではない。順番が逆だ。人間は、そうしたいことを後天的に倫理と呼称している。小銭を持っていて明日も朝八時に満員電車に乗らなくてはならない私には、倫理を愛する余裕がもてない。それもよくわかる。
私に「ただ、そうである」と語りかける声がする靄のかかった場所のことを、宗教に親しみのある者たちは〈カミ〉と呼ぶのかもしれない(定かではない、私はそれについて「わからない」ということさえわからない)。名を持たぬ私のカミは出来損ないもしくは紛い物である。それがいることそれのみでは、特に私を「救済」するわけではない。名無しのカミは、他宗教の神々が蓄えている、先人たちによる叡智・行動規範・讃美歌・まじない・救済への手立てを持たない。しかしもはや(まだ、というべきか)この空洞においそれと他の神を代入するわけにはいかない。あるじの呼びかけは、決まって「啓示」というかたちで、コントロールできないところからふいに現れる。さもなくば身体的合一を欠き継続できない。賢しらな理性がなんの役にたとうか。
さて、買い物が済んだら手を洗い包丁を構えてまな板の前に立つ。
今から私たちが作るのは、「今まで味わったことのある、くだんのスープ」ではない。見切り品や安値をつけられた旬の野菜を適当にピックアップしたがゆえに、食材同士の組み合わせも未知数の、「謎のスープ」だ。たとえ既知の組み合わせであっても分量はまちまちだし、これからの調理法でその味はゆうに変化しうるだろうし、なによりも「あのとき食べたあのスープの」という言葉の「あのとき性」について、今の私は確証がもてない。今の私は「現在の私」それ以外の何者でもないからだ。
「過去の私」――それは、確かにあったのだろうが、いまやもはや完全に損なわれている。時の流れはほんとも嘘もつくから(Fishmans, Go Go Round This World)。「未来の私」――それは、言葉では定義づけられているが極めて形而上の概念であり身体的融和性をもたない。私というのは、よくわからないが、常に「現在の私」でありつづけるようだ。そうあろうとするのは、私の働きではない。私一人でいたんでは、過去も未来も把握できない。
ゆえに、今から私が作るもの、それは今まで「この私」が味わったことのない、かつ、「この私」はその味を知ることができないスープなのだ。
なにをスープ如きでつべこべと講釈を垂れているのだ、とあなたは思うかもしれない。だが、ここが肝心なのである。あなたのその理性でもってしても、あなたの現前のこの野菜たちは、「完璧に理解されたスープ」にはならない。何かのアクシデントで前代未聞の腹痛をもたらすことになるかもしれないし、そもそも出来上がるのかも定かではない。ただ、あなたの目の前には、鍋の横にまな板と野菜たちが爛然としているそれのみである。たとえ周到に準備をして、理性を働かせて挑んでも、どうにもならないような物事が確かにあなたの現在にある。
野菜を洗う。適宜皮をむく。食べやすく火の通りやすい大きさに切り分けていく。
たかだかスープ作りを救済の手がかりとするためには、ひとつのコツを要することとなる。
それは、全てを「括弧に入れる」ことだ。概念を括弧で閉じてみて、新たな意味合いが生じてくるのを待つ。この行為をフッサールは「エポケー」と定義した。私たちはたった今からエポケー・スープにとりかかる。
私たちがよく知る玉ねぎの習性を、あたかも卵でとじるように、括弧で閉じてみる。炒ったクミンをエポケーし、紫芋をエポケーし、馬鈴薯をエポケーし、鍋の中に入れる。
なおのことそれは、私たちがよく知る「いつものスープ」にはなり得ない。全てを理性の光で照らすことは叶わない。日常生活をよく観察してみると、そこは、「たまたま」「どうしてそうなったのかわからない」「だが、そうである」という物事に溢れかえっており、スープ作りはその最たるものである。私たちはただ「そう」なのだ。全てが思い通りにいくなんておこがましい。
さて、包丁を掲げまな板の前に立つとき、私ははたして「ある」のだろうか。
もちろんある。私はここにいる。だが、大蒜の皮を剥がし薄切りにするそのときに、「私が苦痛を感じる[わたし性]というのは、今、ここに確かにいて、本当に苦しく死んでしまいたい気分に陥っている」と高らかに宣言することはできるのだろうか?
そんなことをしていたらきっと人差し指の先に怪我を負う。小さな破片を注意深く削ぎ落とすとき、硬い人参や南瓜を慎重に一センチ程度の角切りにするとき、ジャガイモの芽を取り除くときに、先程まで叱責をやめなかった私が鳴りを潜めて押し黙る。私は「実存者」ではなく、ただの「実存していること」になる。
野菜を刻む――ささやかではあるが創造をするとき、私という実存者は一度消失しなくてはならない。穴の空いた空間にしか何かが生まれる可能性は発生しない。何かが生じようとすること、それがスープ創造の始まりなのであり、実存の終わりなのである。
『〈実存する〉仕方であれば、私は実存するには回収されない。〈私〉は〈実存者〉でなく、〈実存する〉仕方になり、それゆえ実存しない。(P.156)』
私は自己同一性をもってしてスープを作りはじめるわけではない。ただ、生きるために、糧を食らうためにスープを作りはじめる。
すべての野菜を切り分けられたら、フライパンに油を敷き、熱されるのを待ってから食材を投下する。火の通りにくい根菜ははじめに、すぐ焦げてしまいそうな葉物は後から入れるとよい。ひとつまみ程度の塩を振り、よく混ぜる。
「アキレスは亀の背中に一生追いつくことはできない」とされるこの世界には、アキレスと亀以外の何物もいない。かつ、それぞれは単独であり、孤独である。このふたりの時間が流れ出すためには、他の時間をもち彼らを観測する「他者」が現れるのを待つ他ない。
時間が流れるためには他者がなくてはならない。パラドクスに雁字搦めになってはいない、異邦人たる他者がこの場に生起することによって、もつれたふたりの時間は動き出す。
私たちはおのれ自身を叱責することによって、【無時間性】のなかにおのれを投下している。
私たちが私たちであることに無力することを括弧に閉じて抜け出していずれ「救済」されるためには、時間が動き出す必要がある。
フライパンが加熱された分だけ、見切り品の蕪がフライパンの上で形を変える。蕪が熱される分だけフライパンも熱されるので、蕪が一生焦げることはない――とはならない。なぜならこの場には観測をする私がいる。この場の時間が動き出す。現在の私は現在の私のままでありながら、フライパンと蕪は熱されていく。私は留まり続けることはできない。メイラード反応の異邦人語に語りかけられて、私の時間は動き出す。
全体的においしそうな焦げ目がついて表面がてらっとしなっとなってきたら(彼らの発する語に耳を傾けて翻訳を試みるのだ)、適当に水を入れて煮立たせる。あればコンソメ・ほんだし・白ワインや日本酒を適当に入れてみてもいいが、なければそれで構わない。
過剰というのは苦しみを生む。私たちを苛み、渇望し、満たされぬ欲望に囚われているという欲求不満の状態に陥っているとき、それは他ならぬこの私に何か重要なものが欠けているからでは決してない。あの時逃げ去ってしまって永遠に手に入らなくなった何かをそれでもと追い求め、今まさにわれのこの身に不足していることが苦しいのではない。あの時失った何かが、形を変えて、私たちの中で増殖している。レタスを入れすぎたチャーハンを完食する苦痛に似ている。過剰が我が身を不快な状況に貶める。
なにかを作り出すためには過剰に溢れているのではいけない。なにも無くなった空白からこそ創造は萌芽する。
さて、すべての野菜がいい感じに煮込まれただろうか。私はここで粗熱を取りハンドブレンダーで撹拌してポタージュにするが、もし具材がごろっと残っているほうが好みであればそのままで構わないし、しっかりじっくり煮込んだやわらかい野菜をスプーンなどでも崩してしまってもいい。なんにせよ塩胡椒で味を整えて仕上げる。どろどろのポタージュになってしまったのならば、水とコンソメもしくは牛乳で薄めて液状にすると飲みやすい。調味料も液体も、いっぺんに入れずにちょっとずつ調整するように。
ところでこんなに面倒くさいことをしなくても、市販されているスープを買ってくればいい、そもそもスープなんて飲まなくていい、と思うかもしれない。時間が有り余っているニートだからといって、後片付けも大変なこんな作業に従事するのはコストパフォーマンスが悪い。値引された食物にありつきたいのならば値引きされた惣菜や弁当を買えばいい。
そもそももっと他に上手にできる人がいる、というのであれば、こんな文章も書かなくて結構である。頭の出来がよくなくて、要領の悪い私がチンケで面白みのない文章を生み出さなくても、賢くて他者に支持される人間が色々な本を読み込んだうえでわかりやすくまとめてくれたものだけ読めばいい。下手くそな絵を描かなくても、箸にも棒にも引っかからない短歌や音楽を作らなくても、誰も気にも留めないような写真を撮らなくていい。もっとうまい人が仕事にしているのだから、下手くそな創造は恥を晒すだけだ。
だが、他でもない私がそれをやらねばならない。他者は完全なる他者であるからだ。とうぜん、他者のほうがうまくできる。だが、他者が成し遂げたことと、自分が成し遂げたこととは決定的に本質が異なる。他でもない私が、私のためにそれをやらなければならない。私にはその責任がある。
かつ、私は、今までに勤めてきた会社や仕事なるものに対して、「それはこの私がやらなくてはいけない」と思えないからイヤになって辞めてきたのだろう。とうぜん生きていく上で端金を稼がなくてはならないので、一生このままで生きていくというわけにはいかないのだが。
救済スープが出来上がった。
食べる。うまいとかまずいとかを思う。余った分は冷蔵で三日くらい持つ。もし我慢ならないくらい食えたものではなかったら、市販のカレールーをぶち込んでカレーにしてしまえばいい。
しかし、この「スープ」という料理をはじめに考えたのは一体全体どこの誰なのだろう?採れた野菜をそのまま食べるのではなく、水溶性の栄養を逃さないために「煮込む」という方法で火を通し、調味料とやらで味付けをして食べやすく保存がきくように加工する、という技術を精緻化させていく、という行為が「スープ」というシニフィアンには乗っかっている。炒めるときに塩を振り水分が排出されやすいようにする、というよく聞くテクニックも、私一人で生きていたんでは到底ひらめくことはなかった。
そもそも「野菜を栽培する」という営みを作り出した叡智にも頭が上がらない。現在私はリビングの端っこで小松菜の根っこを水に浸して育てるというナノ規模家庭菜園をやっているが、太陽と水だけでニョキニョキと育つ植物のことが不思議でしょうがない。土に植えたり肥料を与えたりすれば、何の変哲もないゴマ粒みたいな種たちが、日頃スーパーでよく見る野菜に育つということの意味がわからない。理屈ではわかっていても、その本質について理解が及ばない。理解ができないということがわかる。
ゆえに、私はすべてに遅れている。私がやっているこのことが、誰かのひらめきが生み出した技術で、連綿と受け継いできた生活の知恵で、それを我が物顔で私が享受しているとき、私は知らず知らずのうちに先人たちの声かけに応答していたことになる。
そこには「遅れ」が生じている。ここでもまた、現代社会の「見えなさ」によって雁字搦めに悶着していた時間が動き出す契機が生まれる。スケジュール・アプリの過去を眺めて三ヶ月前の記憶を思い出すのとでは、質の異なる「過去」によって、私は生かされていると感じる。私は他者を、世界を、この世界が生まれたときの「よくわからないが、そうである」さまを、享受している。そのとき、私は確かに救われている。
これは幼少期に聞いた説教くさいお小言と一言一句おなじ物ではあるはずなのだが、この身体の腑に落ちている。だが、きっと言葉を尽くして誰かに伝えてみても、耳触りのいい標語にしかならないだろうから、ここで筆を置く。
さて、私の空洞には〈カミ〉を代入することは叶わないが、〈カミ〉なる者はいるとしか言いようがない。いないということができない。もし神がいないのならば、すべては理性の働きで最善化された人間の思い通りにうまくいくだろうし、すべては「そうである」という抽象的な贈与性なしに理性の光によって照らされるだろうし、私はすべての過去をわかっているし、すべての未来に予測がつくだろうし、すべての生活が満ち足りているし、満ち足りていないのならば何らかの欠陥があり、それは因果関係によって説明がつき、改善ができ、それをしないということは自己責任だと言い切ることができる。私はそれらを成すことはできない。私の作ったスープは私ただ一人の力によって完全性を保持し、おいしいものである以外にあり得ない、という口ぶりで話すことはできない。
そこそこマズいスープも割にできるし、とびきりおいしいスープについても、どうしてそうなったのかよくわからないし、「私一人の力である」とは口が裂けても言えない。理性で現実をすべて把持することはとてもではないがままならないが、なんの因果か私はただここにいる。どうやらおそらく、それをいないということにはさせられない。
そして、私の空洞に〈カミ〉を入れることはできないが、とりいそぎ、喫緊の問題として、私の目の前には異邦人たるあなたがいる。そう、私の知り得ないあなただ。ほかでもないあなたのことを指差して、あなたのことが分からないということに感動している。そして、あなたのことを心から愛していると思う。ささやかながらもあなたと出会うことで、創造が、啓示が、救済の営みが行われている。〈カミ〉もあなたも他者であり話が通じないという点では変わらない。それならば一旦それでいいではないか。〈カミ〉を持つ者に対して、劣等感をいだく必要はない。
ニート状態は私にとって、労働者よりもずっと純粋に生活者である。「それは私が真にやりたいことである」行為である労働を避けたニート状態は、日常生活に気を配ることができる。他の誰かがやったのでは意味を成さない、自分がやるということに意味を持つ行為を探ることができる。それそのものは救済とはならずとも、きっと救済に接近しうる。なにをするにもつべこべ考えてみたらいいのだ。そうしていると、いつか、「何だかわからないもの」「だが、そうである」と語りかけるモノと邂逅するだろうし、私はあなたを愛さなければならなくなる。
ニートよ、ニートマインドの持ち主よ、お金がなんとかなる限り、限度を越えて働かなくていいのだ。そこでは救済を気づかえない。つべこべ考えながら、とりあえず包丁を握ってスープを作れ。