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特異点論:ある生物の先駆的覚悟

ろっさん

 最近ニートを題材にした文章を書いていない。

 正直ニーマガVol.3に寄稿するのはあきらめようと思っていた。理由は4つ。

  • 今年もスキー場のリゾートバイトに改めて挑戦し、ここ数ヶ月ニートではなくなっている(マインド的に本業は無職、副業でバイトしているのだと己を納得させた)

  • 春~秋はニートとして実家を拠点に放浪ばかりしていたが、旅に満足しすぎてニート文学らしいものを書く気になれなかった(おそらくただの旅レポで終わる)

  • 一番しんどかった社畜時代に比べて思考が鈍磨してしまった(苦しみという原動力が無くなって哲学書が読めなくなった)

  • ニートどうこうというより、自分についての思考や問題ぐらいしかネタがない

 こんな中途半端な状態のまま、ニートとフリーターの間をふらふらと行き来しながら20~30代を費やす気がする。最初は楽しいものの、周りの同級生たちは出世/結婚/育児へ進んでいく。焦りだけは一人前だが結局何者になることもできず、ついに40代で肉体の衰えに絶望する。そうして世に怨嗟の声を吐きながらだらだらと生きていくのだ。

 ……というのは嘘っぱちである。正直全くそんなつもりはない。

 ニートとフリーターの間をさまようのは今後も間違いないだろうが、それについてなんの焦りも不安も感じることがなくなってしまった。ちょっと前に同級生が家庭を築くことになったが、シンプルに喜ばしいので普通に祝福した。同世代の人間がテレビに映っても、注目されるだけの偉業を得るために支払った代償を考えればあまり羨ましくない。いつか訪れる肉体の衰えだけは避けられないが、絶対に避けられないがゆえに覚悟も決まるもので、まだ若い今を後悔のないように使い切ることしか考えていない。

 そんなわけで初対面の人に自己紹介するときも臆面なく「無職でーす」と答えている。負い目がカケラもない。そもそも他人の目線ってそんなに重要か?

 僕は駅ですれ違った人の顔を覚えていない。おそらくほとんどの人が同じだろう。1週間前にすれ違った人の顔を10人思い出せと言われたら誰も出来ないはずだ。多くの他人は自分のことなどさして注目せず、覚えてすらいない。その人はその人の人生に必死だからだ。きっとどこかの他人にとっての僕なんて、記憶の奥底へ沈んで消える一つの澱に過ぎない(僕にとっての他人もそうであるように)。

 家族、恋人、友達……それぐらいの範囲までが大切にできるコミュニティの限界なんじゃないだろうか(そうでなければニュースで毎日のように取り上げられる事故中継を見るたび号泣してないとおかしい)。そう考えると顔も名前も知らない他人のご機嫌取りに必死になる理由など無いように思える。自己中心的な考え方かもしれない。だがそれは他人も同じなのだ。 そんなふうに考えだしてから、他人に対して萎縮することがなくなった。

 関係の薄い他人を恐れることがなくなれば、もう少し近しい他人も同様に怖くなくなった。例えば、小学生の頃は上級生がすごい大人に見えたものだが、いざ自分が高学年になってみれば「そんなにたいしたことないな……」みたいになった感覚はなかっただろうか。それと同じく、いざ社会人になってもたいしたことないな、で終わったのだ(本当に有能な人もいるにいるが、それと同じくらい幼稚な大人や性格の悪い大人もいた)。

 別に社会人をバカにするつもりはない。伝えたいのは、社会人を過大評価しすぎて自分を卑下したり萎縮したりする必要など全くないということだ。先も触れたが、自己中心的な考えだって役立つことがある。心理学的にも、成功したら「自分のおかげ」、失敗しても「周りのせい、または運が悪かった」という評価を選択するのが一番自尊心を高めるという結果が出ている。

 この考え方のメリットは鬱っぽくならなくなること、デメリットはイタいオッサンになりやすくなることである。他人の顔色をうかがう必要はないが、だからといって敬意を払わなくてもいい訳じゃない。あまり自分中心に立ち回りすぎると町で見かける傍若無人なオッサンみたいになってしまうので本当に注意したい。接客業でアルバイトした経験があるので、店員にクレームをいれてデカい顔をする中高年がこの世でいちばん醜いと思う。醜い大人は嫌いなので、自分もあの化け物に変容してしまわないよう心がけている。どうせニートするなら善いニートでいたい(ニートのレッスン、「敬意を払え」だ)。

 オッサン(≒年をとる)といえば、ネットでこんな投稿があったのを覚えている。 「年をとると相手の服とか周りの視線とか気にならなくなるけどな。自分の子供の事とか、将来に向けた貯蓄や、住む場所の事を考えたら見た目なんか言ってられん。そういう周りの視線よりも、家事一緒にやってくれそうな人とか、支え合って生活できそうな人とかを考えなよ。」

 この投稿者のような〝守りたいもの〟〝最も重要なもの〟枠が埋まっている人は強い。「世間体なんかに構ってる暇ないんで」とはねのけられるからだ。この枠に入るものは人それぞれだろうが、だいたいは恋人/家族/宗教……などだろう。 思うに、この枠に自分自身を入れられたらなかなか悪くない「護心術」になるんじゃないだろうか。

 あれは確か、社畜労働でボロボロな時期に思いついたことだったと思う。職場の上司や顧客先に散々自尊心を砕かれ、人生を仕事に捧げることを強要されていた。セルフネグレクトの空気があの時の自分に纏わりついていた。

 そんなとき、切り傷のあった指にかさぶたができていることに気づいた。

 自分は自分のことをどれだけ粗末にしようとも、肉体は自分の命を保つため回復に努めてくれている。そんな当たり前のことを改めて自覚したら、体より仕事を優先することが申し訳なくなってきた。

 たとえ会社で孤軍奮闘の虚しさに覆われても、死ぬときまで肉体だけは味方してくれる、自分にとって最高の味方は自分なのだ。

 そういうわけで“最も重要なもの”枠に自分自身を当てはめて生きることにした。「自分を大切にしよう」みたいなありきたりなフレーズで片づけるのは癪だが、おかげで周りの評価をなぎ倒してでも自分(=味方)を守ることに躊躇がなくなった。

 こんな性格のせいだろうか、「生きているだけで苦しい」「存在していることが苦痛」という感覚が分からなくなってきた。自分が鬱病になったことがないからそう言えるだけなのだろうが、安易にわかったふりをして慰めるのも軽率な気がしてうまく踏み込めない。

 これは自分が「人間」ではなく「生物」という立場で生き方を考えているからというのもある。シカやオオカミなど人間以外の動物は、自己保存の為に必要最低限の食料さえ獲得できれば最悪なんとかなるわけであって、人間特有の悩みを持つヒマはない(ヒマ、つまり余裕を心に持つからこそ人間は素晴らしいのだが)。今日明日に死ぬかもしれない自然界を生きる野生動物に比べれば、現代社会のヒトは生きるだけならさほど苦労しないはずだ。辛いことはない。

 そんな「生物」の立場で考えれば、おのずと社会的な価値観が人工的な虚飾にしか見えなくなってくる(そういう意味では漫画『寄生獣』のミギーと自分の価値観は似ている)。

 「正社員にならなきゃ人生終わってる」「ニートは生きている価値がない」「結婚できない」……うーん、どうでもいい……。結婚についても、大昔から遺伝子を残したがる傾向にあった個体だけが、ただ淘汰されず今も存在しているに過ぎない。それだけなのに、自分たちの代も結婚するべきという義務なんて本来発生しないはずだ。やりたい人だけやればいい。

 労働についても人工的な虚飾を省けば狩猟行為の代替的手段でしかないし、そもそも生命維持に必要な栄養素を獲得できれば本来それでいい(しかしこの考えだと、「働きたくない!」というニートは「狩りをしたくない!」と言っているライオンみたいな生き物になってしまう。じゃあ飢え死にするだけだぞと言われたらそれまでなのだが……)。

 そうすると現代の労働より狩猟採集で生きていくほうが簡潔で美しく思える。労働は決められたルールに従って働いた報酬として貨幣を貰い、それを市場で交換し、そうしてやっと食料を手に入れるわけだが……なんだか回りくどい。一方、他人との余計な摩擦もなく、単独で食料を手に入れられる狩猟採集なら余分な気苦労はないのだ。釣りや狩猟に憧れる人々の気持ちもよくわかる。

 そういうことで実際にやってはみたが、狩猟採集は美化されているだけで効率は良くない。

 春は山菜が多く採れるが、夏からほとんど採れなくなる。秋はキノコといってもそもそも簡単に見つからないし、第一それだけで生きていける栄養は揃わない。

 野生動物は一日の大半をエサの獲得に費やすわけで、娯楽に溢れた現代で四六時中狩りに費やすこと自体わりに合わないのだ。せいぜい趣味の範囲に留まる程度だろう。

 シカの狩猟は獲れたら大きい収穫だったが、免許取得や罠道具の購入、毎日の見張りなどの手間に加え、猟友会の人間関係も大きな摩擦として立ちはだかる(駆除報酬を猟友会に吸われている猟師も知っている)。秩序のためにも仕方ないことだが、残念ながら現代の日本で完全に摩擦のない狩猟採集生活を実現させるのは非常に難しい。

 結局「生物」的な目線で見れば、より楽に食料が採れる方を採用したほうが賢いに決まっている。効率の悪い狩猟採集生活なんてやめて、半フリーターとして節約生活し、食パンをかじっている方が効率は圧倒的に上なのだ(野山を飛び回るより市街地でごみを漁って確実にエサを獲るカラスみたいなイメージ)。ニートでありながらお金が手に入る生活を無理に目指すより、変にこだわらず片手間にフリーターする方が気楽で効率的だろう。

 このまま「生物」らしく効率だけ最重視する生き方を続けても問題ないのだが、去年はわりと色んな人々と交流した。ニーマガの打ち上げもその一つだ。知らない群れのもとへ交流しに行くなんて、「生物」的には余計な行為だ。不思議なものである。もともと僕は孤独でも構わないような根暗なたちなので、オフ会なんてものには参加する気はなかった。

 こんなことを言っても仕方がないのだが、孤独であるとストレスを感じてしまう生理現象が憎い。孤独だと脳に悪影響らしいが、なんで悪影響になってしまうのか意味が分からない。生物学的なバグなんじゃないか?

 ついでに孤独であることは悪いことだと評価する世の価値観も憎い。そもそも孤独ってそんなに悪いものだろうか?しかしやっぱり生涯未婚の独身男性は寿命が低い傾向にあり、孤独になることを恐れる声は世間に絶えない。

 そんな世界の仕組みに対して反抗心をもっていた僕は「別に孤独であっても平気でいたいし、一人でも人生を楽しめる奴こそ凄いんだ……!」と思っていた。

 そんな考えのまま、大学の卒業前に青ヶ島という場所へ旅をしに行ったことがある。青ヶ島とは二重カルデラというマンガみたいな見た目の島で、その秘境っぷりに惹かれたのだ。

 しかしこの青ヶ島、外洋のど真ん中にあるため潮が荒く、冬場の就航率は20%を下回る。往路は運良くたどり着けたものの、案の定帰りの船は欠航となってしまったのだ。

 島に閉じ込められたあとは当てもなくぶらついて観光するしかなかった。せっかく秘境を求めてやってきた青ヶ島なのに、帰れない焦燥感であまり楽しめなかった。結局その日は何度も宿をとるのは金が勿体ないと野宿をすることになった。

 しかし、この野宿が功を奏した。キャンプ場にいた一人旅の女性と天体写真を目当てにやってきたおじさん二人組を迎えて軽い宴会になったのだ。

 これが本当に楽しかった。奢ってもらったビールを飲みながら皆で南十字座を探した。火山島よろしく地熱釜というのがあって、それで芋や卵、ソーセージなどを片っ端から蒸しては食した。

 島の中央部には地熱を利用したサウナ施設があり、施設のそばで地面に寝そべって天然床暖房を堪能した。あの時ほど青ヶ島という場所を心から楽しめた瞬間はなかった(翌日に大枚はたいてヘリに乗せてもらい、無理やり脱出したのも良い思い出である)。

 あの旅が大成功に終わったのも、ひとえに善い人たちとの交流がきっかけであったことは間違いない。見知らぬ土地をただ既知へ変えていく従来の作業的な旅に一石を投じ、その土地の記憶に華を添えてくれた。

 頭が強がっていても、心で理解してしまったからしょうがない。そう、ただ単純に「人との交流は善い」のだ。実際に体験したことが理屈を飛び越えて己を納得させた例だった。あの頃の僕はひねくれていたが、悔しくも認めざるを得なかった(それからは「生物」らしく、効率的に幸福を求めるためなら他者との交流も必要だと納得した)。

 そんな大学時代の思い出もとうの昔になり、なんだかんだ気がついたら20代が終わろうとしている。覚悟してはいたが、やはり体力が落ちた。20代前半の頃と違い、自転車を200㎞ぶっ続けで漕げられるか自信がない。

 仮に体を鍛え上げても、それはアラサーな肉体の質を上げただけであり、いくらでも無茶できた20代前半の肉体が帰ってくるわけではない。

 二度と戻らないこと、何かしらに挑戦することができなくなるという機会の喪失……。哲学教授シェリー・ケーガンの著書『「死」とは何か』によれば、死が恐れられる真の原因は機会の喪失にあるという。死んでしまえば誰かに会うことも、何かを食べることも永遠にできなくなる。

 そうすると老化だってグラデーションをつけた死の下位互換じゃないだろうか。少なくとも、20代前半にやっていたような体力まかせの旅は出来なくなるのだから。

 僕がニートになったのはこの焦りが根底にある。このまま人生で一度きりの20代を労働で塗りつぶされて終わるのが耐えられなかったのだ。

 しかしこれでも皮肉なことに、大学2年生ぐらいまでは正社員としてずっと生きていくものだと思っていたし、なんならニートなんてものになってしまえば人生終わりだなー、などと本気で思っていた。

 今じゃニートであることになんの負い目もないのだが、こんなふうに昔は本気で信じていた存在(サンタなど)や考えが、時間が経ってから振り返ると全く同意できないことがよくある。

 そういうとこもあってか(時間の概念について哲学できるほど学はないのだが)、過去→現在→未来の自分は全て他者のようになっていくのではないかと思っている。

 過去→現在の自分については記憶があるだけ真の他者とは違うのだろうが、思想信条まで劇的に変化した場合はまさに「別人のように」なってしまうんじゃないだろうか。小学校低学年の頃にサンタを信じていた気持ちは思い出せるが、だからといって現在もサンタを信じているとは到底言えないように。

 (不老不死の弱点もここにある。「死なない=自分が永遠に存在する」と思えば魅力的だが、気の遠くなるほど長い時間の中で自身がもつ思想信条は必ず変化するときが来るだろう。だって永遠に生きるのだから、いつかそんなときは必ず来る。どれほど先かはわからないが、未来に存在している自分が今とは全く違う自分なら、それは本当に不老〝不死〟と言えるのだろうか?)

 さてそうなると、30歳や40歳の自分がもつ思想信条もその時々で変わってしまうことを覚悟しなくてはならないことになる。覚悟というか、未来の自分が今と同じ考えを持っているなんて期待しないほうがいい、と言うべきか。たった数ヶ月で自分が書いた文章に違う意見を持つこともあるのだから、30代の僕が「労働最高! ニートは社会のゴミ!」なんて嘯いている可能性もゼロではないのだ。

 だが悪いことでもない。未来の自分に他者性を見出せば、将来の不安を楽にすることにつながる。30代にどう生きるかは30歳の僕が考える仕事ということになるし、そもそも何を考えているか予想もつかない未来の他人のために今の自分を不安に陥れるほうが非合理的だ。だからこそ、残り短い20代を悔いなく生きるようもがき続けられている。

 将来のことはわからない。だがわからなさすぎるからこそ、逆転して助けになることもある。

 「沖仲仕の哲学者」と言われたエリック・ホッファーは、哲学者でありながら80歳まで生涯現役の肉体労働を続けた。ストイックな印象だが、そんな彼も28歳のとき、労働が死ぬまで続く人生に幻滅して服毒自殺を図ろうとした(とても他人事には思えない)。

 口に含んだシュウ酸の刺激に耐えられず自殺は失敗するのだが、そのとき「一本の道……どこへ行くのか何をもたらすのかもわからない、曲がりくねった終わりのない道としての人生」という考えが彼の頭に浮かんだらしい。ちょっと詩的なのだが、彼はこれを「いままで思いもよらなかった、都市労働者の死んだような日常生活に代わるもの」と受け止めた。

 もちろん彼だって、この先の人生に何が起こるのかまではわからなかったはずだ。

 この先の人生を絶つ行為に失敗したからこそ、それを再認識できた。その後、これを転機に彼は都市労働から季節労働に切り替え、新しく放浪を始めることになる。生きている限り、この曲がりくねった道の先は全く予想もつかない。最悪の状況に苦しむ今の自分から、転じて別人に変わる日がいつか来るかもしれないという可能性を、きっと見出せたのだ。

 「エリック・ホッファーの半生を引用するのはいいが、そんなお前は80歳まで働く根性ないだろ」という自己批判が頭をよぎった。全くその通りである。そんな歳まで働きたくない。

 というか今の日本をぼんやりと覆っている「将来のため、老後のためにしっかり働きましょう」という風潮がもうわからない。この風潮こそ、仕事をしていないニート達に漠然とした将来の不安を与え続けているように見えてならないからだ。

 もし、この風潮に反論するなら「いつ死ぬかわからないのに、将来のために今くるしい思いをする必要はあるのか」といった感じだろうか。ニートをやっている身としては強く同意したい気持ちである。老いて働けなくなっても暮らせるようにお金を貯めておくのは結構だが、そのせいで人生の貴重な若い時期がすり減るのは本末転倒である(僕は肉体の衰えた老年期に価値を感じないので、太く短く生きる方が良いと本気で思っている)。

 しかしここで疑問に思ったことがある。次の2つの人生パターンを見比べてみてほしい。

  • 生まれたときには大金持ち、幸福は絶頂の状態で人生が始まる。しかし人生を進むにつれ徐々に凋落していき、最後は極貧かつ最悪に不幸な状態で幕を閉じる。

  • 生まれたときは酷く貧しく、人生はどん底から始まる。しかしその後は成功を続け、最後は大金持ちになり幸福は絶頂のなかで幕を閉じる。

 わかりやすく財産(金持ち↔貧乏)で例えたが、要は幸福度が減少していく人生パターン(幼少期100点→青年期50点→老年期0点)と、増加していく人生パターン(幼少期0点→青年期50点→老年期100点)の2つだ。注意してほしいのは、生まれてから死ぬまでの幸福度の総量は2つとも同じ、150点ということである。

 僕が不思議に思うのは、どちらも幸福度の総量は同じなのに、幸福度が増加していく後者の方が良い人生に見えないだろうか?きっと多くの方が同意するだろう。

 おそらく、ここに「将来のため、老後のためにしっかり働きましょう」という風潮の根源があると考えている。

 後者の人生パターンが良く見えるのは、単純に成功体験を重ねられたからではないか?それもあるだろう。プラスがマイナスになるより、マイナスをプラスにしていく方が気分はいい。しかし、それだけでは「老後のためにしっかり働け」という風潮を支持する程ではない。老後のために頑張った労働が、人生をプラスに変えていけたとは到底思えなかったからだ。

 ではなぜ我々は人生をハッピーエンドにしたがるのだろうか?

 言い換えれば、なぜエンド(最期)がハッピー(幸福)でなければならないのだろうか?

 これは推測だが、死に様というものは、その人がもつ生涯の集大成として見られがちだからではないか (こんなふうに生きたから、最期はこうだった、みたいな)。だから、みんな老後を幸福で彩りたくて仕方がないのだろう。 だが、哲学作家の飲茶氏は現代人が忘れがちな事実を物語小説のなかでこう指摘している。

 「言っただろう、死は無規定である、と。つまり、いつ死ぬかなんて誰にもわからないのだ。だとすれば、『余命』や『死期を知る』という言葉そのものがハイデガーの哲学に反している。人間は、宣告された死期が来る前に死ぬかもしれないし、余命の期間を過ぎても生きているかもしれない――死は誰にも予測できないのだ。そして、このことは逆に言えば、いつでも、この瞬間にでも、死が起こりうることを示している。が――人間はその明らかな事実からも容易に目をそむける。『余命が三日だ』と言われてもなお『まだ三日は死なない』と捉えてしまう。違う! まさに今この瞬間にも人間は死ぬかもしれない! いつでも死にうる存在なのだ!

(中略)

 ハイデガーの言う『死の先駆的覚悟』とは、いつか来る死を想像して備えよ、という話ではない。今、この瞬間に人間は死ぬ存在なのだという事実を真っ向から受け止めろ、という話なのだ。」

(飲茶 『明日死ぬ幸福の王子』 ダイヤモンド社より)

 我々は忘れがちだが、死ぬ瞬間を予測することは出来ないし、ましてや人生が老後まで続く保証など到底ありえないのだ。明日、ましてや今から死ぬとなった際、あなたは自分の人生が良いものであったと本心から言えるだろうか?

 おそらくそのためには、いつ死んでもいいと言えるほどの相当な覚悟と、人生の瞬間瞬間を強く生きる心意気が求められるだろう(この辺の意見はあくまで無神論者をベースにしておく)。

 ……だいぶニートにはハードルの高い話になってきたが、最近はそこまで意気込まなくてもいいと感じている。

 それはなぜかというと、「自分が生きていたこと」「人生に僅かでも幸せを感じる瞬間があったこと」……そういったことの全ては、(どれだけ小さかろうと)まぎれもなく地球上に存在した事実として誰にも否定できないからである。※これを勝手に「特異点論」と名付けさせていただく。

 特異点論を採用する利点は、「人生の終幕は必ずしも幸福であるべき」必要がなくなることだ。

 思うに、我々は過去の一瞬一瞬を忘れているだけか、単に軽視しがちだ。ただ思い出せないだけで、道中のどこかで必ず幸せや喜びを見いだせた瞬間があったことに違いはない。

 だから、老後とかいうエンディングにばかり気を取られる必要はないのだ。これは幸福の大きさみたいな程度の問題ではない。「最初から存在しなかった」ではなく「かつて確かに存在していた」という明確な事実に注目してほしい。地球上の歴史の一つに、どれだけ小規模だろうと、そういった特異点が刻まれたことが重要なのである。

 (そう思えば、その辺のサラリーマンが自分の存在や価値を誇示するために働いたり、アーティストが何かしらの作品を発表したりするのも理解できる。「自分が何かを成し遂げた」「自分が〝ここ〟にいた」という事実に安心したいのかもしれない。)

 ※この考えについて異議があるとすれば、「存在していた事実は違いないという点に着目するなら、同様に悲しみや怒りだって歴史として刻まれているじゃないか」という反論があり得る。しかし、この理論自体が不幸に立ち向かうためのものであり、だとすると先述の異議自体が成り立たなくなる。加えて不幸を強調すればするほどこの理論はより強く輝くものなので、結果的にはより強く人生を肯定できる効力を持つと考えている。

 特異点論は単なるポジティブな主観的判断に留まらない。あくまで客観的に世界の歴史を観察した際、己の人生が確かに存在していたという事実を独りぼっちでも再確認できる。

 人は死んだら全て無になる。神が死んだ虚無主義の目線でみればそうなのかもしれない。だが、自分が生きていたという事実それ自体までもが世界からなかったことにはされないのだ。

 ※その歴史を内包した世界(=宇宙)だっていつか消滅すると言われている。その先には無があるらしい。だが、その無にだって世界が存在していたという事実まで否定することは出来ない。奇妙なことに、特異点論がもつ無限後退は虚無主義に最後まで食らいついていく。

 この考えを応用すれば、先に述べた「過去→現在→未来の自分たちは他者性を帯びる」という意見も悪いものではなくなる。過去のような体力がなくなっても、未来の僕がどれだけ変容していこうとも、客観的な事実として今までの自分が確かに存在していたからだ。

 20代をふらふらと過ごした結果、30代や40代の僕は苦労する羽目になるかもしれない。「昔のおれは馬鹿だった」と主観では否定するかもしれない。だが、ふらついてなければあの青ヶ島の特異点は刻まれなかったのだ。そう思えば20代の自分を許せる気にもなる。

 別に青ヶ島だけではない。今この瞬間だろうが、死の間際で苦しんでいようが、「あれはよかったな」と思える出来事をかき集めている。2024年を放浪旅で埋め尽くした動機もそうだ。どの時間軸の僕が見ても「あの年のおれは上々だったな」と認めるだろう。そう思えば、やっぱりニートでいたことに後悔はない。

 しかし、ここで置いてけぼりに出来ない疑問がある。

 ……いいことなんて何一つなかったと主張するニートはどうすればいいのだろう?

 それなら、まずひたすら自分を見つめ直してみてはどうだろうか。

 軽くおさらいをしてみよう。

①人は死ぬ時ぐらいでないと己の人生を評価しない(→だから「老後のために働きなさい」)。

②しかし、ハイデガーが言うには、人はいつ死ぬかわからないらしい。

③であるなら、死を意識すればいつでも人生を振り返られるとも言える。自分を見つめ直せる。

 ニーチェが説いた超人のように生きるのは億劫でも、人生に幸福だと思えるような特異点がまだ見つけられなくても、まずは徹底的に自問自答を繰り返して自分を見つめ直せばいい。

 偶然性によって今の自分が成り立っていることを再認識し、その上で自分自身をいったん肯定してやること。そこに意義があるのではないか。まるでエリック・ホッファーのように、この先どう転ぶか分からない人生に(分からないからこそ)希望を見出してみるのも悪くない。

 もちろん絶対的な根拠はない。しかし、無意味と思える世界であっても、どれだけ絶望的でも、それでもなお立ち向かおうとする意志こそが最善なのだ (きっかけは指先のかさぶたレベルでいい)。

 その先に待ち受けるものがたとえ望ましくない結果だったとしても、「あのとき立ち向かった意志」そのものがなかったことにはならない。その意志がもう特異点だからだ。

 そして、自らの意志で世界に立ち向かった瞬間こそ、受動的に “存在させられている” 生き方から、能動的に “存在していく” 生き方へ変化できるだろう。

 (といっても、こんな説教くさいことを書いている本人は3ヶ月リゾバしたら9ヶ月遊ぶような奴である。ニートに向かってしっかり働けと言える立場ではない。まずはnote書くとか軽くタイミーやるとかその程度で全然いいと思う。)

 そういえば僕も社畜生活の中で絶望の淵にいた頃、やたらと哲学書を読みふけっていた。思えばあれも、苦しい日々に立ち向かうための意志を探していたのだ。

 その中でもウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』が印象に残っている(難しすぎるという意味でも)。

 20世紀最大ともされる哲学者、ウィトゲンシュタインは癌によって62歳でこの世を去った。彼に最後の挨拶をしようとした友人たちに向けた最期の言葉は、「素晴らしい人生だったと伝えてくれ。」だったそうだ。

 苦悩に満ちた人生であったろうが、彼は考えながら生きたその歩みを否定することはしなかった。最期の言葉を紡ぐ際、きっと彼も己の人生に、素晴らしい特異点を思い返したに違いない。

 偶然によって理不尽に世界へ誕生させられようが、限られた時間のなかを生きて死ぬことになろうが、とりあえず生きていく。

 繰り返すが、自分が生きていた事実は誰にも否定されない。

 それは、偉大な哲学者だろうとニートだろうと同じなのだ