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緊急対談‼“アンチワーク哲学者” 久保一真 vs “サラリーマン仏教徒” 安眠計画

ゆるふわ では、緊急対談ということで、さっそく始めていきましょう。まず、最初にお二人共、簡単に自己紹介をしていただいてもよろしいでしょうか。

久保一真 久保一真a.k.a.ホモ・ネーモです。労働を撲滅するために生まれてきた男です。  ……だけじゃ説明不足すぎるかw 反労働を研究する中で、労働の廃絶が可能であり、望ましいという結論に至りまして、その思考のプロセスを普及させていくためにまとも書房という出版社を立ち上げました。『14歳からのアンチワーク哲学』という本を書いたり、『労働廃絶論』という本を翻訳して出版したりしてます。

安眠計画 安眠計画という名前でインターネットで駄文を垂れ流しています。大阪で誰でもできるようなデスクワーク(ブルシット・ジョブ)に身を窶しつつ、信仰やスピリチュアル、認識の転換による「現実」の変容などを「本業」と捉えています。  アンチワーク哲学については、ホモ・ネーモ氏の著作を読んで「ほんまにやれんのか〜?」と半身で読みつつ期待半分(財源の問題とかは措いてベーシックインカムはもらえたら嬉しい)、自分の大切にしている価値観を嘲笑うような挑発的な文章にイライラ半分という感じです。ネーモさんの厄介アンチです。本対談ではネーモさんと喧嘩しにきました!

久保一真 この前までnoteをブロックされてました。

安眠計画 笑った。勘違いしてほしくないのは、大真面目に世界を良くしようとしている男のことはほんまに好きやから、愛ゆえにガチ喧嘩を仕掛けてしまうんやで(好きやから殴ってんねんで理論)。

久保一真 DV男のロジックやそれはw

安眠計画 (笑)。いやでもほんま、真実の愛って侵襲性が不可欠やないですか?

久保一真 それはその通り!っていうか、愛というか、人間関係には侵襲性が常にあるし、それを否定する必要はない。

安眠計画 相手のことを不可逆的に変えてしまうような行為にこそ、責任が生まれるというか、本当のコミュニケーションって他害的よねというか。

久保一真 生きることは奪うこと。マリウス・ジェイコブ1の言葉。

安眠計画 さらっと日本では知る人の少ないフランスのアナキストの言葉が引用される(笑)

久保一真 よくご存知で(笑)。 昨日、たまたま彼の獄中での演説文を読んでましてね。

ゆるふわ いきなりバチバチ始まって笑いました。とりあえず、まだ始まったばっかりなので真のバトルは本編までお預けでもよいですか(笑)?

久保一真 いったん本線に戻ろう(笑)

安眠計画 ほんまそれ(笑)

ゆるふわ では、お二人とも熱烈な自己紹介ありがとうございました。  申し遅れましたが、自分はゆるふわ無職というハンドルネームで活動しているものです。2018年に大学を卒業してから、ニートをしたり、フリーターをしたり、フリーランスをしたり、なるべく働かないで生きていく方法を探究してます。今回の対談では、司会役を務めさせていただきます。

安眠計画 元々ゆるふわくんが作ってくれたコミュニティが縁になって出会ったので、これ以上ないファシリテーターやと思ってます。よろしくお願いします。

久保一真 いやほんと最近いろんなコミュニティに出入りするようになったけど、ニーマガはなんというか……すごいいい塩梅で運営されているというか……ゆるふわ無職の人柄のなせる業やなぁと思ってます。よろしくお願いします。 

ゆるふわ お二人ともありがとうございます。改めてよろしくお願いします。

■ イントロダクション:なぜニートマガジンに加入したのか?

ゆるふわ このニートマガジンはニートや働きたくない人が文章を投稿する雑誌であり、現実での交流も兼ねているコミュニティとなっています。まず、イントロダクショントークとして、どんな経緯でニーマガに加入してくださったのかそれぞれ聞かせていただいてもよいでしょうか。  ネーモさんはアンチワーク哲学者ということで、いきなり濃ゆい記事をひっさげて参加してくださったのは覚えているのですが(笑)

久保一真 そういえば、「現代のナチスに加担したくなければ、ニートになれ2」っていう記事を最初に書いて送り付けたなぁ。  当時は仕事がうまくいかなくて、もっとアンチワーク活動をやっていこうとぼんやり考えてたところで、なんかいろいろやってみようと思っていたタイミングでね。  ニートマガジンておもろいことやってるゆるふわ無職っていうおもろい奴がいるっぽいぞ……っていうので割と軽い気持ちで参加したはず。  で、最初の記事は、「せっかく書くなら俺が一番ぶっ飛んでておもろい記事書いたるぞ」みたいな無職詩人3みたいな気概で書いたはず。

ゆるふわ 「現代のナチスに加担したくなければ、ニートになれ」のインパクト、いまだに覚えてます。制御不能なやべーやつを呼び寄せてしまったかもしれない、って(笑)  でも実際、ネーモさんの寄稿してくださる記事のブッ飛び具合というか、キャッチーさがなければ、ニーマガは全然話題にならずに細々とやってた(もしくは潰れてた)んじゃないかと思いますね。ジャンプで言えば、「ワンピース」的な存在感を放っているんじゃないかと。

久保一真 いいポジションあざすw 実際ニーマガvol.1は巻頭カラーのポジション取りたかったから、これは絶対に先頭に配置したくなるだろうなぁという文章を狙って書いたなぁ……。

安眠計画 確かにネーモさんは巻頭カラーって感じする(笑)

久保一真 そんなメインストリームのことやってないんだけどねw 世間的にもそうだし、ニート的にもそう。俺が言ってることはニートからも反発大きいし、ニートだけじゃなくてアナキストとかマルクス主義者とか、現状に不満持ってる人から反発されやすいんよなぁ。

ゆるふわ その一方で、安眠さんは「ネウロ4」や「ムヒョロジ4」の枠で、個人的にニーマガには絶対欠かせないと思っています(笑)  安眠さんは、どんなきっかけでニーマガに加入してくださったんでしたっけ? 長い間、ツイッターで相互フォローだったのは大きいと思うのですが。

安眠計画 「ニート」の文化人類学的な記述に共感と、自分の信じる仏教や道教的なものと無職とのシナジー効果に可能性を感じたからですね。  元々ゆるふわくんの文章のファンで、特にどうしようもない人たちを「人間らしい」と表現するところに底抜けの優しさというか、単なるニヒリストじゃねぇな!という霊感というか、フィーリングでこの人いいな〜と思ってたインターネット生命体がコミュニティ作るっていうから「お、入ってみるか」みたいな気軽なノリで(笑)  あと自分は高校生のころmixiの短歌コミュニティに所属していて、かなり苦しかった時期にオンラインの人間関係に救われていたので、その体験を今現在苦しんでいる人たちに再生産したいなぁみたいな下心もあった。  そもそもニートって総務省統計局の「労働力調査(基本集計)2023年(令和5年)平均結果の概要」によると、2023年時点で日本に59万人もいて、各年齢階級における若年無業者の人口に占める割合は2.4%も占めてるんですよね。少なくとも学年に4、5人はいて、潜在的なニート予備軍も含めるとクラスに1人や2人じゃきかないくらいいる。日本のキリスト教徒の数より全然多い。  ニートって全然マイノリティじゃないやん!と思って、ちょうど自分も休職したり、働きたくねぇな〜と考えてたので、サラリーマンながらニーマガの末席を汚しています。

ゆるふわ ありがとうございます。僕もなんだか安眠さんとは以前からシンパシーを感じていて、「逆だったかもしれねェ…理論5」じゃないですけど、ツイートや文章読んでると、ありえたかもしれないもう1人の自分の姿を見ているような気持ちになります。加入してくださって嬉しいです。  「ニートは実はマイノリティじゃない」「サラリーマンながらニーマガに参加」とのお話でしたが、ニーマガメンバーって実は純ニート少ないですよね。しっかり数えたわけじゃないですけど、ニート・フリーター・フルタイム労働者がそれぞれ1/3ぐらいじゃないでしょうか。  でも、自分的にはそれで全然いいと思っています。ニートやサラリーマンといった肩書き関係なしに、誰でもカジュアルに「働きたくない!」って主張しながら、交流できるコミュニティを作り上げていきたいですね。

■ 前編:世界は「遊び」で回るのか?

アンチワーク哲学とは?

⇨ 久保一真(ホモ・ネーモ)が提唱するアンチワーク哲学は、「労働なき世界」「遊びだけで成立する世界」が可能であることを説き、その実現可能性を探る哲学。久保は労働が「価値の生産」や「他者への貢献」ではなく「他者から強制される不愉快な営み」であると喝破し、万人が普遍的に持つ「貢献欲」をドライブさせることで、強制されない自発的な貢献によって社会を成り立たせること(=労働廃絶)が可能であると主張している。また、そのための施策としてベーシックインカムを提案する。アンチワーク哲学の射程は、貨幣観や国家観の転換にも及び、貨幣や国家が生み出した常識が、誤った人間観や労働観を形成し、現代の非効率な労働社会が形成されていると説明される。これらのロジックは人類学や歴史学、あるいは心理学や生物学、脳科学等の証拠に基づいている部分もある一方で、証拠の不十分さや曖昧さについての批判もある。また、「労働廃絶」というあまりにも大胆なビジョンには実現可能性を疑う声も大きい。今回の対談においても、こうした問題点についての議論が交わされることとなるだろう。

安眠計画 おし、じゃあずっと気になってたこと訊いてもいい?  ネーモさんの労働廃絶=遊びによる祝祭空間が実現した社会って、たとえば「遊び心」のない職人気質な人たちは貢献欲欠乏症的な、病人として取り扱われる感じなのかな?  いくら休息しても遊べない、遊び方が分からない(義務感ドリブンでしか前に進めない)人たちは一定数いると思うんだけど、「自分が本心からしたいこと」が見つからない、というか「自分とか、ないから!」という境地に達した人たちについては、アンチワーク哲学ではどう捉えてる?  なんか「ブルシット・ジョブ6」って言葉を自らの生業ではなく、他者に向けて気軽に使える人たちに対して、自分が「本心」からしたいことを見つけられてよろしおすなぁみたいな、意地悪な見方をしてしまうんよね(笑)  「本当にやりたいこと」なんて、十分な休息の果てに自らの内から湧き出てくるのか?みたいな疑問というか。

久保一真 その点に関しては2つの論点がありましてね。  まず義務感で誰かに隷従することしかできない人がいるなら隷従すればいいと思っている。隷従しない選択を手にしながら隷従するとき、それはもはや強制ではないし、それは遊びであると言っていいと思う。「俺はこの人に一生ついていく」っていうことは別に否定する必要もない。じっさい、人間はある程度の隷従を欲する部分はあるし俺もそういうときはある。ただし鳥かごはあってもいいけど、鍵は開けておいて欲しいし、みんなそう思うんじゃないだろうか。  もう1つは、仮に隷従がダメなことなのだとするのだとしても、いまの社会よりは隷従する人を減らせるわけなんだから、別にちょっとくらい隷従する人がいてもいいじゃんってな感じ。  「やりたいこと」ってのは別に誰しもあると思う。いま「やりたいことがない」って言ってる人は「やりたいこと(で金を稼げること)がない」って言ってる。金が稼げるかどうかを度外視していいなら、やりたいことがなにもないなんてあり得るやろか?  朝起きたらしょんべんしたくなる。飯食いたくなる。外に出たくなる。公園で池を眺めたくなる。子どもにボールを投げ返してやりたくなる。迷惑ドライバーに舌打ちしたくなる。そういうものを追求できるのが労働なき世界。仮になにもやりたいことがないんなら、誰かに隷従すればいいし労働すればいい。でも世界が労働から解放されて、そうしないという選択肢を持っているならば、心を壊すまで労働するはずがないし、牛を糞尿まみれの牢獄に閉じ込めたり、グローバルサウスの児童労働を見て見ぬフリするとは考えづらい。

安眠計画 簡潔でわかりやすい回答ありがとう。著作やnoteの記事で何度か触れてくれてたくだりだけど、ひとまず本対談における命題のひとつとして整理しておきたかった。  しかしそれでも、俺は義務感で何かを為したい、あるいは他者にそうさせたい(そうあるべきだ)と思うことを隷従-強制という二項対立で捉えることこそ遊び心の欠如では?と感じてしまう。  自分より魂のレベルの高い、あるいは特定分野において知見のある人の言うことを聞くことが、即ち隷従という感じがしないので……。

久保一真 義務感からなにかを為したいと思うこと自体はアンチワーク哲学では否定しないんよね。強制的なものではなく自発的に受け入れられる義務というものはある。たとえば俺は年寄りが辛そうに電車で立っていたら「譲るべき」という義務感を持っているけど、これを実行する行為は広い意味での遊びに含まれるし、別にこれを問題視する必要はどこにもない。  ただし、譲ろうとせずに寝たふりをするサラリーマンに「譲るべき」という強制を押し付けようとするならば、それは労働になり得るんだけど、アンチワーク哲学においては、「譲るべき」という強制を押し付けようとする行為を否定する。いや、より厳密に言えば強制を押し付ける自由も、「譲るべき」と言われたときに拒否する権利も、万人が有する状況をアンチワーク哲学は目指している。  なにが言いたいのかと言えば、命令されたときに万人がそれを拒否する権利を有していたなら(=そこに権力が無ければ)、コミュニケーションは「命令」ではなく「お願い」からスタートしなければならなくなる。そうなったときに、相手のニーズに応えたいという欲望や、よりそのジャンルに精通したプロの言うとおりに行動したいという欲望が掻き立てられたのだとすれば、それは強制ではないし隷従でもないし、広い意味での遊びに含まれる。

安眠計画 なるほど。小便や気晴らしに散策するような、ほとんど生理的なレベルの欲求と、人類社会を前に進めるための高次の欲求(たとえば新しい色のLEDを作りたい!とか安い電化製品を弘く民衆に水道のように普及させたい!みたいな)は別方向の道なのでは? という素朴な疑問がまず1つ。  2つ目に、「お金」は確かに国家による暴力が背景にあって、紛うことなき権力の行使だけど、そうした約束事無しに「お願い」だけで現代社会のようなスケールの人口基盤を維持できるのか? というのが気になる。  たとえば俺たちは古本屋に行って、数百円払えばその道を極めた人の専門知に手軽にアクセスできるけど、気難しい専門家に対して「お願い」ベースで同じクオリティの専門知の教授を引き出すことは可能なのかな?  可視化されやすい貨幣による格差社会が、可視化されにくいコミュニケーション能力による格差社会に入れ替わるだけじゃないのかな?

ゆるふわ 自分もそうなんですけど、多くのニートはコミュ力に難があるので、コミュ力社会になったら困る人は増えるかもしれませんね。アンチ資本主義と言えども、「金さえ払えば自由にしていい」という都市部の暮らしと、個人主義的な生活スタイルが快適であることは認めなければならないように思います。ローカルな閉じたコミュニティで、ボス猿が威張って支配し、陰口や噂話が飛び交う世界はつらいですね。

久保一真 1つ目の論点に関しては、極端な話、人類社会を前に進める必要はないと思ってる。進むかもしれないし、進まないかもしれない(たぶん進むとは思うけど)。それよりも誰も強制されず、労働しないことの方が重要だと思う。  あと2つ目。これはできると思う。だって俺が「労働撲滅!」って話をすれば、みんなが口を揃えて人口維持できるかどうかを心配するわけ。ってことはみんななんとかしたがるってことやん? もしそうでないのだとすれば被災地とかで人がバタバタ死に絶えることなく、ボランティアとか地元民の相互扶助でなんとかなっちゃってるのはおかしいと思う。「やばい! 無料で炊き出しなんか配ったら、誰も避難所のトイレ掃除しなくなる!」とか誰も言わないのが俺は不思議。  あと、お願いベースは割と官僚制的に機能させられると思っている。ボランティアで炊き出しをやる人は「お前のコミュ障だからあげない」とか言わないし、そもそも専門家は人になにかを伝えたくてやってるわけなんだから、本書きたくて書いてるんじゃないだろうか。もちろんコミュニケーション格差は存在するだろうけど、金の格差ほどに広がることはないと思う。  というかね……俺は怒ってるのよ。みんな労働嫌いを表明してる癖に、「労働撲滅できるよー」って言った途端にあれこれと反論するから、「お前ら労働嫌いじゃないのかよ! ここに労働を撲滅できる可能性があるっていうのに、なんで前向きに受け止めないの?」っていつも思ってる。  逆に労働好きな(まぁそれは労働の定義上労働じゃなくなるんだけど)人ほど、アンチワーク哲学好きだったりする。

ゆるふわ その件に関しては、ニートはもちろん「働きたくない」が基本にあるんですが、社会の逆張り者としてニートをやってる側面もあると思うんですよね。だから、アンチワーク哲学を提唱されても、一定数のニートは「そんなの無理」と更なる逆張りを繰り返すんだと思います(笑)

安眠計画 なるほど、人々の欲望によってデザインされた社会が人々の本意から外れるわけがないと。  もちろん短期的な視点ではそうだろうけど、中長期的な野望とか、個人のやりたい/やりたくないとかの向こう側にある大義のために生きたい人たちがそれだけ多いってことなんじゃないかなぁ。  俺はそこに人間の捨てられない宗教性というか、スピリチュアリティの渇望を感じていて、ずっとネーモさんに粘着してるわけなんだけども。  「しんどいし、やりたくないことだけども、やるべきこと」で社会が回っている確かな実感というか。

久保一真 そこはなんというか、個人をベースに考えるか、考えないかの違いだと思う。仏教の人とか、東洋思想の人とかは、「自分とか、ないから」で考えるわけで、大義であったり、道であったり、そうしたものに身を任せるというのを、無我とか帰依的な感覚で捉えていると思うんだけど、  俺はそれすらもあくまで個人の欲望として解釈している。無我夢中で、我を忘れて、なにかに没頭する……やりたいとかやりたくないとかそんなことも考える暇なく、気づいたらそうなっている……そういうものも人間の欲望の範疇に回収して概念化してる。なので、「それも結局やりたいことでしょ? 欲望でしょ?」っていう解釈。  で、「しんどいし、やりたくないけど、やるべきこと」だと本人が感じていてその構造に納得するのであれば、それは欲望の範疇に含まれると思うし、それは定義上遊びに含まれる。  「自由からの行為は道徳法則を退けるのではなく、それを受け入れる」「たんなる義務の概念は自由を排除する」とシュタイナー7が言っているように。

安眠計画 なるほどなるほど。では「みんなのためにやるべきこと」を真に欲望し、やらせるために何度も再演され続けた茶番(遊び)が貨幣だとしたら、その資本家たちの遊びを否定することは、アンチワーク哲学の根本的な自己矛盾になったりはしないの?

久保一真 資本家たちの遊びは否定しない。基本的にアンチワーク哲学はなんらかの強制力や禁止を想定していない(が個人が強制力や禁止を働かせようとすることはあり得る)。労働者が遊んだ結果、資本家たちの遊びに付き合わない可能性がある状況をつくる……という話。

安眠計画 ではその観点に立つ限り、格差社会や貧困というのは、労働者が資本家たちのマネーゲームに付き合いきれず、シカトした(各々の遊びを優先した)帰結じゃない?  たとえば自らの惨めな人生を苦にした自殺でさえも、「その人がそれ(存在の終わり)を欲望したから」で肯定してしまえる危険性はない?

久保一真 うーん相変わらず痛いところつくなぁw   たしかに格差や貧困はマネーゲームからの離脱ともとれるわけだけれども、あくまでアンチワーク哲学は労働にフォーカスを当ててるっていう回答になるんだろうか。  離脱しようにも、離脱しきるのはむずかしくて、けっきょく労働に苦しんでいる人が多数派なわけで、とにもかくにも離脱できる人を増やすのが目的ってことになるんかな。  で、離脱した先に貧困があれば離脱できないわけで、労働の撲滅とは、言い換えれば貧困の撲滅ってことになるのかもしれん。

安眠計画 貧困の撲滅にはやはり、各々が「やりたくないこと」をやるしかないというところに戻ってくると思うんだけれども……。

ゆるふわ なるほど。個人的には、マネーゲームを「降りる」とか「リタイア」とか賢しらに言ってないで、降りた人たちで新しい相互扶助ゲームを立ち上げていくことがこれからの希望になるんじゃないかと思っています。もちろん、そのためにネーモさんはベーシックインカムで誰でも「降りれる」状況を作るつもりなのでしょうが。  この対談を通じて思っていることなのですが、お二人とも「世界を善くしたい」という根底にある志は共通しているのだと思います。それゆえに、この場では言語の使い方や、世界の切り取り方にこだわって、言葉の「雪遊び」をしているだけのようにも見えてしまいますね。たぶん、ネットで対談するよりも原っぱで相撲とかした方がいい気がします。

安眠計画 原っぱで相撲とかした方がいいのは、確かにそう(笑)

久保一真 相撲するかw

■ 後編:人間を救済してくれるのは宗教か?アンチワーク哲学か?

久保一真 ちょっと話は変わるんだけど、労働は強制からスタートして、強制が国家を生み、貨幣を生んだというのがアンチワーク哲学の説明。ここをどう見てるかを二人に聞いてみたかった。

ゆるふわ 専門性がないので、教科書的な貨幣の始まりも、グレーバーによる貨幣論もどっちが真実なのか分かりません……が、あくまでお金は当時の人間集団が効率的にサバイバルを行うために生み出された手段なのではないかと思うので(お金が負債で奴隷として人間を支配するものであったとしても)、充分に文明が発展し、物質的に飽和した現代社会では、貨幣というシステムから抜け出せる可能性はあるのではないか、と希望的観測をしておきます。

安眠計画 俺はネーモさんの(あるいはグレーバー8の)貨幣論にはちょっと違和感を覚えていて、まず強制ありきではなく、まず各々の生存欲求から出発したんじゃないかな?  生存するために明日をも知れぬ狩猟採集から農耕が始まって、食うために働く→働きを数値化するための道具として貨幣が生まれて、本来は便利なはずの道具に縛られて実在しない幻覚に一喜一憂しているのが現代人。  記号を操作しているつもりが、記号に絡め取られているような。  根源的な苦痛を消除するためには記号が記号であると認識するだけでいいはずだから、フルタイム労働から「ドロップアウト」してまで休息する必要も、そうした休息によって「内側から生まれる」欲望を肯定する必要もなくて、すべては幻覚であるという気づきだけで十分なんじゃないかな?

久保一真 国家なき社会には貨幣がない傾向にあるし、あったとしても社会関係を象徴するものであったり、賠償目的のものであった。つまり、「農耕にこれだけ従事したからその対価を渡す」的な発想で貨幣があってそれが衣食住の取引において支配的になることは国家の誕生までなかったように思われる。  サーリンズ9が描いたような原始社会においては、農耕に取り組むことも遊びであったし「生産」と「遊び」を区別する言葉を持たない人たちもいた。  とはいえ、実際のところ、国家誕生の契機は、気候変動が進んで人口集中と農耕への一極集中を余儀なくされたところにあるという説が有力っぽいので、安眠くんがいうように「生きるため」の生産が過酷になっていった結果、誰もやりたがらなくなっていったという考えもおそらく一面には存在する。それをやりたくないからそれを他人に強制しようとする男たちが現れて彼らが国家になり貨幣(=文字)を生み、貨幣と国家(=強制=労働)がもたらす心理的リアクタンス10的なフィードバックループが生じていったんじゃないかと思う。  ここで重要なのは、資源が極端に枯渇していなかったり、生産性が極端に低くなかったり、なおかつ強制が存在しなければ、生産活動が労働化することはないということ。渡辺京二11が描いた江戸時代の日本では、ほとんど不愉快な強制という意味での労働は存在しないように見える(もちろんゼロではないが)。農耕社会であろうが、工業社会であろうが、情報社会であろうが、恐らくそれは当てはまる。  現代社会は少なくともニートを養い、推定40%も存在するブルシットジョバーを養い、それでいて衣食住を行き渡らせるだけでなく膨大に廃棄している状況にあるので、貨幣による強制を排除するだけで労働を排除できるポテンシャルは十分あるように思われる。  すべては幻想であるという気付きは可能ではあれ、そもそも難易度が高い。「南無阿弥陀仏を唱えれば救われるよ」と言われてそれを信じるに至るまでに越えるべきハードルが多すぎて、万人がそれを実践するのは現実的とは思えない。こんだけ頑張ってる安眠君がまだ悟ってないなら、大半の凡夫がいまの社会で悟るのは現実的じゃないんじゃないだろうか。  それに、すべてが幻想であるという気付きを得れば、「みんながすべてが幻想であると気づくにはどうすればいいか?」なんて考える必要はないわけやん? それを考えようとするということはやっぱり幻想ではないなにかを信じていると俺は思う。つまり、苦しんでいる人は少なければ少ない方がいいという感覚を持っている。そして、先述の通り苦しむ人を減らすために南無阿弥陀仏を唱えてもらうのは効率が悪い。潤沢さの保証=ベーシックインカムからスタートして、強制=労働を撲滅すれば、恐らく大部分の人は救われるし、救われない人のために救われ方のノウハウも出回る。kurome君がつくってるニートwiki12はまさしくそれ。  アンチワーク哲学は非現実的だと言われがちなんだけど、この道が王道だと俺は思う。

安眠計画 まず第一に、「国家なき社会には貨幣がない傾向にある」という記述についてだけど、これは過度に一般化された主張のように感じる。  歴史的・考古学的に一律に成立するものではなくて、たとえばアンデス文明の前国家段階やオセアニアの島々の原始経済などでは、貝や石、クジラの歯、べっ甲、布、羽毛など実物貨幣が使われてきた事例がある。これらはおもに婚資として(ネーモさんの言うところの「社会関係を象徴するものであったり、賠償目的の」)嫁入りあるいは婿入りの際にイエの労働力である娘や息子を「贖う」ためのものやね。  世界各地の文明の前国家段階における実物貨幣とその用例を一つひとつ挙げるまでもなく、「国家なき社会に貨幣がない傾向」というのはやはり早計(あるいは「貨幣」の定義をズラしたカテゴリーエラー)だと思う。  学術的に疑問の残る奇説にネーモさんがなぜ喜んで飛びつくかという動機を考えると、やはりネーモさんにとって歴史を学ぶことは「強制されると嫌ですよね? 強制するな!」というエモーショナルな動機を裏付けるための「遊び」として捉えてるからでは?(これは意地悪すぎる見方かもしれないけど、客観的にもチェリーピッキングの謗りは免れないと思う)  ネーモさんに批判が集まるのは、何も「誰も口にしたがらない本当のことをブッチャけている」からではなく、人様が大切にしている聖地を遊び場に変えて土足で踏み荒らしているからだと思う。  急にポエムを読むけど、表面上は優しいようでいて、本当に死にそうな人が最後にすがる小さな灯りを吹き消してしまうような悪戯心が文面に横溢してる。  第二に、サーリンズが描いた原始社会における「生産」と「遊び」の区別がないという点についても、近年の研究では、このような社会がどの程度存在したのかについて議論がある。すべての原始社会が同様に「生産」=「遊び」であったと一括りにするのは明確に誇張だし、地域や文化によって大きな差異があるとしか言えない。  次に、「国家誕生の契機」について述べた部分。「気候変動が進んで人口集中と農耕への一極集中を余儀なくされた」という説は一つの理論ではあるけど、国家誕生の要因は複雑であり、単一の要因で説明できるものではないことは明らかじゃない?  たとえば技術革新、交易の発展、社会階層の形成など、多角的な要因が絡み合った結果として今われわれが「国家」と呼ぶ概念が段階的に形成されたとする説の方が全然有力だし、単純に気候変動と人口集中に帰結するのはやや片手落ちな感じがする。  また、江戸時代の日本における労働観についての言及も、渡辺京二が描いた労働観はやはり一つの視点に過ぎず、全ての階級や地域において「不愉快な強制という意味での労働」がなかったとは当然言い切れない。実際には、農民にとっての年貢の負担や、江戸時代後期の都市労働者の労働環境など、苦しい労働条件が存在していた記録も多い。ここもやはりエモーショナルな結論ありきの「遊び」としての学術的な蓋然性や妥当性軽視の傾向が見られる。  次に、現代社会において「貨幣による強制を排除するだけで労働を排除できる」とする主張については、その具体的な実行可能性について吟味が不十分だと思う。  ベーシックインカムの導入については、財源の確保、社会全体の生産性の維持、労働意欲の変化など多くの根本的な問題が絡んでいて、具体的な解決策が示されていない。  理想として掲げるのは良いけど、現実的にどう実行に移すかについての確固たるビジョンが必要じゃない? 本対談もそのための草の根運動だと言われれば、そんなんええから早よお金配ってーやとしか言えん。『14歳からのアンチワーク哲学』や『労働廃絶論』をどれだけ熱心に読んでもベーシックインカムは実現しないけど、仏典は真剣に読めば絶対に救われるよ。  最後に悟るのは難しい云々とか、そんなこと仏教徒が一番わかっとんねん。難しいというか、たぶん今世では不可能や。一生かけても完成するか分からんものを、それでもこの道を歩んでいきたいと思えるのが大乗仏教や。  「すべてが幻想であるという気付きを得れば、『みんながすべてが幻想であると気づくにはどうすればいいか?』なんて考える必要はないわけやん?」て、ネーモさんは「気付き」を得たことあるの? 是非その風光を教えてほしいな。  シンプルに真剣にやってないだけ。だから人様の聖域を遊び場にできる。  以上の点から、ネーモさんのテキスト群は理想的な社会改変についての思索を示しているけど、その主張は一面的であり、具体的な根拠や現実的な検討が不足しているし、何より「今この社会をギリギリで頑張っている人たち」へのリスペクトに欠けすぎてる。  まあやりたくないことはやらんでええと思う。本当にそれでいいと思う。  でも人が大切にしてる概念の定義を手前勝手にリフレーミングして、ブルシットだとか廃絶だとか放言する限り、必ず誰かしらがシバきに行くと思うよ。

久保一真 貨幣の定義をズラしてるってのはその通りで、実際にここで論じたいのは貨幣と呼ばれるものの中の一部なわけ。それはちょっとわかりにくくてごめん。  要するに猪をとってきて食わせることや、芋を手渡すことに対して日常的に対価として支払う意味での貨幣がほとんど存在していないという意味。  婚姻など社会関係を結ぶ際には複雑な感情を処理する貨幣が必要になるけど、それはこの際どうでもいい。要は、日常的なレベルの貢献を貨幣ではかるような未開社会はない傾向にあるのではないか?という指摘。  もしそうなら、日常的なレベルの貢献が強制されることなく実践され、無償で提供されていた証拠になる。これは人間は生産を遊びとして取り組むことができるという可能性を示唆している。  チェリーピッキングしているように見えるのはその通りで実際にチェリーピッキングしてる。ただしそれは遊びのように取り組まれる事例から、遊びのように取り組むヒントを取り出してるわけなんだからチェリーピッキングだがなにか?となる。大谷翔平やイチローのバッティングからヒントを得て、野球が上手くなる方法論を取り出してる人を見て「チェリーピッキングだ!」と言ってるようなもんよ。  なにも、あらゆる原始社会に労働が存在しないとは言っていない。あらゆる労働社会にも遊びが存在するように、原始社会にも労働はある。当たり前。なぜなら強制はどんな社会にも生じるから。  ただし、強制がなければないほど生産は遊びと化す傾向にあるという一般則を導き出す事を否定するのは、ほとんどの存在する証拠を無視することになると思う。それこそアンチワーク的理想を鼻で笑いたいという結論ありきの厨二病的エモーションの発露じゃないか?  実際、強制が人のモチベーションを下げることは心理学にも山ほど根拠があるし、ビジネス書や組織論を紐解いても似たようなことが書かれている。強制なく自発性を尊重することが人の可能性を引き出せることも同様で、そのことを否定する心理学者は1人もいないんじゃないか?  だから社会から強制を取り除く方法を考えることでもっとも効率的に人を救済できると考えるのは妥当。  そして、ベーシックインカムが強制を取り除くものであるなら、そもそも生産性の維持を保証することは不可能。なぜなら、そのためには強制が必要だから。  そもそも現時点で生産性の保証が存在しないことをどう考えるか? 農家の平均年齢は年金受給年齢を超えているわけで、生産性の維持を保障したいなら彼らから年金を取り上げるか銃をつきつける必要があるはず。  自由なんだから保証はない。でもみんななんとかしてくれるはずだし、困ったら俺もやる。それが自由の意味。奴隷を解放するとき誰かが生産を保証したのか? 児童労働を禁止するとき誰かが生産を保証したのか? そんなことよりも自由を優先すべきだと俺は思う。  っていうのもあるし、ベーシックインカム実験ではおしなべて労働意欲(生産意欲というべきか?)の減退は生じておらず、スモールビジネスを始める人や、子育てに集中するなど、広い意味での生産へ向かうことが確認されている。ベーシックインカム実験で酒タバコギャンブルに全ツッパするような事例はほぼないんじゃないかな? これまたベーシックインカムなんかやったら社会が崩壊するという結論を下すのは、存在する証拠をほとんど無視しないと難しいんじゃないか?  で、そんなんええから早配れってのはその通り。だから最近、政治家になるために議員に会ってきて政治家になる方法を相談してきたし、今度また勉強会にもいく。ベーシックインカムを解決策として掲げる以上それは実現するように動きたい。ただし、あくまで民主主義というシステムでやるからには民意を得る必要があって、そのための啓蒙と同意が必要。だから出版もやらなければならない。  個人レベルの救済も重要だけど、そればっかりを啓蒙してると、最終的に自己責任論になるやん? 俺は安眠くんの1万分の1も仏教をしらんやろけど、俺は仏教は「我慢しろ」って言ってるようにしか思えんかった。飢えても、家がなくても、爆弾が降り注いでも、ブルシット・ジョブに振り回されても、悟ったら我慢できるのかもしれん。でも俺は現実的な問題を取り除く方に希望を見出したい。  悟るのが難しいなら、万人を悟らせて救うことも難しいわけやん? 俺はベーシックインカム実現するよりそっちの方が難しいと思う。現実に何千年もやってきて仏教は現代人を救えていない。結局は仏教も個人の自助努力に任せる自己責任論であり、個人レベルのライフハックに過ぎず、社会全体をラディカルに変える運動にはなりえない。  仏典を読むよりは、アンチワーク哲学を読んで俺を担いだ方が救われる可能性高いよ、と言いたいね。

安眠計画 カッケ〜〜 つまりアンチワーク哲学っていう新しい権力を創出しようとしてるってこと?

久保一真 どうやろ? 国家や企業が持つ金という権力を万人に解放するにあたって、民意という権力を動員する……という意味では権力を創出していると言えるだろうけど、あくまでベーシックインカムと労働廃絶にしか使えない権力にすぎず、マリウスジェイコブが金持ちからの略奪のために武装したのと似たようなものかもしれない。  そこで俺が政権を取ってあらゆる生産を管理するための中央委員会を組織するなら即座にそれは権力に転嫁するわけだけども、それはアンチワーク的理想とは明らかに矛盾する。  非労働を強制するわけでもないし、資本主義のゲームを延々プレイし続けることも否定しないし、ブルシット・ジョブをエンジョイすることを否定もしない。貢献欲を持たない人に対して貢献を強制することもない。俺の意のままに価値観を一新したいわけでもない。  権力を人をコントロールする力と定義するなら、コントロールしないことをアンチワーク哲学は掲げるわけだから、どうあっても権力の獲得にはつながらない気もする。

安眠計画 アンチワーク哲学が俺にとっての救いたり得るかは現時点では保留するしかないけど(というか、真の意味でのアンチワーク哲学支持者が熱狂の渦を描く姿を想像できない)、少なくとも君はええやつやということだけは何回サシ飲みしても変わることのない印象やと思う。 文章がとにかく腹立つだけでほんまにええやつやということが伝わってくるというのはすごいことや。  また詩を詠むけど、実際の権力を打倒する装置(ギロチン)になり得るかを措いてギロチンが善か悪かを論じるのは無意味やと思う。意味は後から付与されるだけやから、ネーモさんが自身の「現実」として眺めている風景を変えられるかどうかにしか、こちらとしては興味がない。ネーモさんが「現実」を遊び場とする限り、俺は君を遊び相手やとしか思われへん。その視座に不惜身命の帰依をすることはないと思う。  「俺の担ぎ手になれ」と断言しているのも、言葉は力強いけど、ごっこ遊びの中のロールプレイやと思うと面白い。三島由紀夫はそうしたメタ的な自己認知に長けてて、今でいうセルフプロデュース力があった当時の人にしては珍しい文学者やと思うけど、それに似た感じがある。  やはり君の本質は文学的な感じがする、君の物語に参加するためのアテンション経済。まさに巻頭カラーに相応しい。  ただ三島由紀夫と違うのは、意図的に演じている「遊び」の世界に取り込まれても、バッドトリップにはならなそうなところ。ええキマり方してるね。  それにしても信念ある人からのストレートな批判はやはり目が冴える。俺もしっかり自分の「現実」をやらんとなと思える。  遊びに真剣なことは伝わった。そこは俺も汲み取れてなかったし、リスペクトがなかったかも、ごめん。  でも、宗教のひとつも信じられへんくらい遊び心のない人とできることって相撲くらいしかなくないですか?

久保一真 ありがとう、俺そこそこええ奴やねん。そして、君もええ奴やからつきあってくれてるんやろ?  アンチワーク哲学に熱狂の渦を描く姿は俺も現時点では想像できていないので、もう少しやり方を考えたいところではある。  やはり実践レベルで、貢献欲や力への意志に基づいて自分が動いている感覚とか、その結果欲望が満たされる感覚とか、遊び感覚で労働らしさのある行為(たとえばティッシュ配りとかイベントの受付とかね)に取り組める感覚とか、そういう体験を多くの人が得ていくことが重要だと思う。  ニーマガなんかまさしくそれ。ニーマガをつくるプロセスは労働らしさのある行為だけど、みんな自発的に書く。ゆるふわくんはPDFで毎回概要を送ってくれてスケジューリングしてくれるし、装丁や組版、製本もクオリティが高くてぶっちゃけ尊敬するレベル。またオフ会をやればろっさんがみんなの分のクッションを用意してきたり、白﨑さんが即席バーみたいなものをはじめたり、俺がから揚げをつくったり、しんめいさんの息子さんをみんなで可愛がったり、そういう自発的な貢献が溢れかえる。あるいはひろーりくんは能登の災害ボランティアに自発的に取り組んで、なんだか楽しそうにしていたし、現地の人たちも相互扶助を楽しんでいる様子をレポートしてくれた。やってあげたとか、対価をよこせだなんて誰も考えずに、ただやることに充実感を感じたはずだし、そうしないよりもそうしたほうが喜びが増大することを実感していたはず。(これはアッパー系ニート13の戯れではなく誰にでもある普遍的な感情であることは強調したいし、仮に労働なき世界でなら部屋で寝転がっていてもとがめられることもないことも強調したい)  そのときにアンチワーク哲学の理論的下地がなければ「あー俺良いことしたなぁ」とか「楽しかったなぁ」で終わっちゃうんだけど、そうでないなら「俺ができるなら、みんなできる? てことは労働撲滅できる?」という可能性を見出せる。  そうなると「労働=強制」という定義に腹落ちするはずだし、その輪が広がっていけば「労働よくないよねー」というコンセンサスも生まれてくるはず。そして改めて労働の現場を見返したときに、労働によって人間の貢献を組織化することの不合理さを実感できるはず。そこでようやく熱狂が生まれるんだと思う。  理論だけだと納得できないし、実践だけだとただの思い出。両方の経験をつくっていく活動をやっていきたい。  そういう意味ではニートwikiも重要だし、まとも書房の活動を参加型にしていることは重要。活動自体が労働廃絶の可能性を実感するためのテストプレイみたいなものになっている。  俺を担げってのはまぁ半分はロールプレイかもしれないけど、半分は本気かな。三島由紀夫は詳しくないけど彼に例えられたのは初めてで新鮮やわw  ただ最近は自分で自分をメタ認知するのを諦めたというか、メタ認知しているつもりでいることこそが自我の周囲に壁をつくるような気がしていてね。メタ認知抜きでキマろうと心がけてる。  そしてメタ認知抜きでキマれるのが宗教でしょ? だから俺は実を言うと宗教したいんだよね。

■ まとめ:宗教とアンチワーク哲学の共存は可能か?

ゆるふわ お二人とも長時間に渡る激論ありがとうございました。そろそろ紙幅も終わりに近づいてきたので、この辺りでまとめに入らせて頂こうと思います。  人間を救ってくれるのは宗教かアンチワーク哲学か? おそらく、この対談を読んでいる多くの現代人は宗教による救済を信じることはできないと思います。特にこの対談のメイン読者層であるニートやフリーター、働きたくない人たちはアンチワーク哲学の方に希望を見出すのではないでしょうか。  ですが、仮にベーシックインカムが実現し、労働無き世界が訪れたとしても、人間は死にます。老いや病いによって必ず死にます。そのような逃れられない絶望の中で、アンチワーク哲学が人間を救ってくれることはないでしょう。アンチワーク哲学はあくまで世俗的な領域において人間の生を充実させるものであって、超越的な領域において人間を救済してくれるものではありません。それでも、絶望のさなか、己を照らしてくれる光があるとすれば、それはアンチワーク哲学そのものではなく、こうして僕らがネーモさんと裸のぶつかり合いのような議論を行ったという生に刻まれた思い出の方なのではないでしょうか。  おそらく、ほとんどの人の「働きたくない」はただの愚痴であって、本当に心の底から「働きたくない(働けない)」と言っているのはニートだけだと思います。この社会で働けないことは、いずれ貧困に追い込まれて死に至ることを意味しています。死ぬことは絶望にほかならない。ニートは死を直視している。だから、絶望しているんです。  ですが、絶望しているからこそ、暗闇の中で光を見出すことができるとも言えるでしょう。一定数のニートが宗教を学び、信仰に辿り着くのはそのためなのではないのかと思います。ほとんどの現代人は資本主義のまどろみの中に溺れていて、光に気づくことができない。  僅かな余命を伝えられた病室、死刑執行前日の独居房、墜落する飛行機の中、そうした逃れられない絶望の中で、最期に人間を救ってくれるのはやはり宗教的なものしかないのではないか?と自分は考えてしまいます。  ……ということで、お二人に尋ねてみたいのですが、そもそも宗教とアンチワーク哲学の共存って不可能なんですかね? ネーモさんの聖域を踏み荒らすような態度が気に入らないという問題はいったん置いといて、それぞれの思想体系的に調和はできないのかと。例えば、アンチワーク哲学では自発的に特定の価値観や集団に従うことは否定していないわけじゃないですか? 聖の領域は宗教が人間を救済して、俗の領域はアンチワーク哲学が人間を救済する、っていうやり方はできないのでしょうか。

久保一真 アンチワーク哲学の信奉者が宗教をも信奉し実践することはあり得ると思う。ただ、逆はないような気はするなぁ。  とはいえ、根本的な人間理解に相違はあれど、実践的にぶつかるものではないよね。

安眠計画 どうだろう、俺個人としてはそうあってほしいな〜とは思う。  たとえば布教史的には中国で儒教や道教と習合したり、本朝で神道やその他雑多な風習が仏教に取り入れた(あるいは神道や俗習に仏教の「薫り」がうつった)ように、開祖ホモネーモが入寂したのちに後世の人たちが好き勝手に仏教とアンチワーク哲学を組み合わせるなんてことは十分起こりうると思う。  しかしネーモさんが変革するべき「現実」と呼ぶ今・この世界においてアンチワーク哲学と仏教がシンクレディズムを起こすかどうかは分からない。  アンチワーク哲学が真に万民に開かれた「哲学」であるなら、強制されたくない人たちと仏教徒というのは本来相性が良いと思うし、自然と混ざり合うような感じはするけど、現状アンチワーク哲学はまだまだ発展途上(ネガティブな意味での未熟とか未完成といいたいわけではないよ、遊びは無限や)のように見える。  チベット仏教に先例があるように、ネーモさんの言行録が編まれたりするころには「ネーモ師は観音菩薩の生まれ変わりである」とか言うてる仏教徒も出てきてもおかしくはないと思う(そのとき俺が存命であれば徹底的に反駁するが……)。  とまれ習合するかどうかは別として、楽観的にはどちらの視座においても共生は不可能ではないと思う。  悲観的には極端に社会がアンチワーク化した場合、「比丘はサービス業じゃないか!(働いている!)」という見解をもとに弾圧されそう。  仮に強制がまったく無くなったユートピアが実現したら、互いの差異を認め合う共生なのか互いを同一化してしまう習合なのかを問わず、少なくとも弾圧を受けない限りは仏教徒たちはそのアンチワーク的世俗社会を歓迎すると思う。

ゆるふわ 回答ありがとうございます。お二人が生きているうちに今回のような議論が繰り返されることによって、うまく共生できるようになっていけばいいなあ、と個人的には思ってます。「ネーモ師は観音菩薩の生まれ変わりである」は笑いました。  それでは、最後にひとことずつコメントをお願いします!

安眠計画 いや〜やっぱひとつの信念によって生かされている人間が、互いの世界観の違いをバチバチに戦い合わすのは健全な営みやと思い直したよ。  ネーモさんとゆるふわくんとの打ち上げのことしか考えてない、今。続きは対面でヤろう!

久保一真 締りかけのタイミングで言うのもあれなんだが、俺はやはり行為の中にこそ幸福があり、救済があると思っているし、欲望のままに行為することで人は瞬間的に悟りの境地に達することができるのだと思う。  ニーチェが言うように、俺たちは欲望を愛していて、欲望の対象を愛しているわけではない。欲望の対象は仮初にすぎず、欲望の対象に向かうプロセスだけを真に欲望することができるし、その欲望を満たし続ける瞬間瞬間に永遠の幸福がある。今回の議論は、議論のための議論ではないという素振りを維持することにより思う存分にトリップできる議論のための議論であり、言ってしまえば河原で相撲を取るのと同じようなゲームだった。ここが宗教による救済とアンチワーク哲学の遊びが重なる場所であったし、そもそも重なっていた。だから俺はタイピングしながら死ねたという意味で思いっきり生きられた。  まぁ何が言いたいかって言うと、打ち上げやるぞってことやね(笑)

安眠計画 行為の中に幸福があるというのは俺も同意するところやで。  信仰も彼岸を指向しているようでいて、救われてるのは現世の自分やしな。未来の無限にも思える幸福が現在のわたしに触れるわけですよ。  とりま飲みいこ!

ゆるふわ それでは、打ち上げの第二ラウンドでまたお会いしましょう。  ありがとうございました!


  1. マリウス・ジェイコブ(1879―1954)。フランスのアナキスト。社会的な害をもたらす富裕層をターゲットとした強盗グループのリーダーとして活躍。アルセーヌ・ルパンのモデルと言われている。

  2. 久保一真, “現代のナチスに加担したくなければ、ニートになれ” note.2023年9月27日.https://note.com/kaduma/n/n199cf9c8c871

  3. ファッキンシティ大阪を中心に活動する現代のビートニク詩人。カネくれる奴かエロい女としか喋らないというポリシーを持つ。冊子版ニーマガVol.2にスペシャルゲストとして『オレの文章以外面白くない」を寄稿。@mushokulibro

  4. 松井優征『魔人探偵脳噛ネウロ』/西義之『ムヒョとロージーの魔法律相談事務所』。共に週刊少年ジャンプ2000年代後半に連載された。 ↩2

  5. 遺伝的・環境的な諸要素によって自己は決定される。それゆえに、他者にオルタナティブな自己を見出す視座のこと。「あなたの身体と環境で育ったら私もそのようにするだろうし、私の身体と環境で育ったらあなたはこのようにするだろう」ということ。

  6. 人類学者デビッド・グレーバーが提唱した概念。「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完全に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態」を指す。

  7. ルドルフ・シュタイナー(1861―1925)。オーストリア出身の哲学者、教育者、神秘思想家。

  8. デヴィッド・グレーバー(1961―2020)。アメリカの文化人類学者。アナキズム活動家。代表作に『負債論』や『ブルシット・ジョブ』がある。

  9. マーシャル・サーリンズ(1930―2021)。アメリカの文化人類学者。シカゴ大学教授。代表作に『石器時代の経済学』がある。

  10. 自由を制限された際に、それに抗おうとする性質。 アメリカの心理学者ジャック・ブレームによって提唱された。

  11. 渡辺京二(1930―2022)。日本の思想史家、歴史家、評論家。代表作に『逝きし世の面影』がある。

  12. kurome氏が主宰する、ニートに役立つ情報をまとめることを目的としたwiki。有志によるボランティア運営ページにも関わらず、充実した記事が取り揃えられている。https://neet.miraheze.org/wiki/

  13. 趣味、ボランティア、創作活動などに精力的に取り組む活動的なニートの意味。反対に、部屋に引きこもって怠惰な生活を送るニートはダウナー系ニートと呼ばれる。どちらも久保一真による造語。