労働中心社会の外側で ——ニート・アソシエーションの可能性——
読書ニート
「働かなくていいなら、働きたくない」
そう思ったことはないだろうか。
私は今、働いていない。だが、それは単に「怠けたいから」ではなく、「働かないと生きられない」という社会の前提に違和感を覚えているからだ。
働かずに生きていく道は、本当に存在しないのだろうか?
この記事では、まずは自己紹介を兼ねて「私が働かない理由」を記す。そのうえで、労働を中心とした社会の仕組みを考え、働かずに生きる可能性について探っていく。
また、本記事内での「働く」「労働」といった言葉は、基本的に賃労働を指す。
賃労働とは、「資本主義社会で、生産手段を所有していない労働者が自己の労働力を生産手段をもつ資本家に一つの商品として売り、その代価として賃金を受け取る労働の形態。賃金労働」(『デジタル大辞泉』小学館)のことである。
■ 働かない理由① 体力的に無理
一日八時間、週五勤務のフルタイム労働が体力的に難しい。同じような理由で働いていない人は、少なくないように思う。
元「日本一有名なニート」のpha氏も、著書『持たない幸福論』(幻冬舎、2015年)の中で「小さい頃からずっと体力のないほうの人間だった」と述べている。
総務省の調査でも、就業を希望していない若年無業者の理由(非就業希望理由)の中で「病気・けがのため」がもっとも多い(総務省「平成19年 就業構造基本調査」)。
私の場合、仕事でちょっと嫌なことがあると、帰宅して横になり回復を図るだけで一日が終わってしまう。そんなの、あんまりじゃないか。
そもそも、人間はそんなに長く働けないと聞く。一日八時間労働は、十分長いらしい。
■ 働かない理由② 朝起きて通勤するのが苦痛
朝型、夜型といった言葉を耳にするけど、私は夕型のようだ。正午ごろ起きて、昼過ぎに活動を始めるタイプ。
そんな自分にとって、朝から働くような主流の働き方は合わない。
それに、いわゆる通勤ラッシュが嫌いだ。
満員電車でもみくちゃにされたり、交通渋滞に巻き込まれたりするのが苦痛だ。本質的ではない活動のせいで、貴重な体力をごっそり持っていかれる。
そもそも私は、乗り物による移動で体力を消耗しやすい。純粋に疲れるのだ。
■ 働かない理由③ 資本主義に抵抗するため
昨年の夏、記録的な猛暑が各地で報告された。
経済成長を最優先する資本主義は、環境よりも利益を重視する。大量生産・大量消費を促し、地球資源を食いつぶして成り立っている。うだるような暑さのなか、馬鹿みたいに腹が立ったのを覚えている。
仕事を通じて資本主義の歯車になって環境を破壊するくらいなら、最初からそれに加担しないほうがマシじゃないか?
また、現代社会はフルタイム労働を前提に設計されている。一日八時間・週五日働ける人間が普通とされ、それができない人は怠け者扱いされがちだ。
でも、本当にそうだろうか。人の価値を「どれだけ生産したか」で測るような社会の在り方に、疑問を抱いている。労働を美徳とし、自己犠牲を称える価値観のもとで、人間は消耗していく。
そんな資本主義社会が、私は苦手だ。
■ 働かない理由④ 人間関係に煩わされたくない
どこの職場にも必ずひとりはめんどくさい人がいる現象に、名前はついているのだろうか。
私程度の人間が選べる職場となると、人間関係に煩わされる確率は高くなる。できるだけ距離を置いてやり過ごしたくても、職務内容上どうしても厳しかったりする。
そんな環境で働くくらいなら、ひとりでいるほうがよほど快適だ。
■ 働かない理由⑤ 探究活動に打ち込みたい
読書や探究活動など、知的好奇心を満たせるような活動をしていたい。
だが実際、そうした活動を仕事にできる人はごくわずかしかいない。もちろん、そうした仕事に就けるのならいいけど、現実はそう甘くない。
だったら、無理に労働市場に適応する必要はないのではないかと思ってしまう。
以上が、私が働かない理由だ。
ここまで列挙しておいてなんだが、「甘えんな」と一蹴できそうな内容でもある。でも、無理なものは無理なのだし、試行錯誤のうえの結論なのでどうしようもない。
正直、「働かずに生きていけるのなら、働きたくない」というのが本音だ。
果たして人は働かずとも生きていけるのだろうか。現代社会では、「賃労働=生きるための絶対条件」とみなされがちだが、本当にそうだろうか。
そもそも、生きていくうえでなぜお金が必要なのかを再考していきたい。
■ お金がなければ生きられない社会
私たちの暮らす資本主義社会は、商品経済と貨幣経済を前提として成り立っている。
商品経済とは、モノやサービスが主に市場での売買を通じて流通する社会のことだ。
一方、貨幣経済とは、貨幣(お金)を介してモノやサービスを交換する経済の仕組みのことである。
例えば、高等教育(=サービス)を受けたい場合、大学の学費としてお金を支払わなければならない。もっと身近な例を挙げると、生活に必要不可欠な水を得るためにはお金を払わなければならない。ペットボトルの水を買うなら小売店に、水道水を利用するなら水道局にお金を払わなければならない。
このように、私たちはあらゆるモノやサービスが商品とされた社会で生きており、商品を得るために貨幣を必要とするのだ。
■ 資本主義はあらゆるものを商品にする
なぜ、私たちは物質的に恵まれた社会で生きているにも関わらず、商品を手に入れるために、絶えず貨幣を使わなければならないのだろうか。
この問題には、資本主義と、資本主義に付随する商品化が大きく関わっている。
商品化とは、「本来は市場で取引されていなかったもの」が、売買の対象になることである。
具体例として、水の商品化について説明しよう。今では、水を利用するためにお金を払わなくてはならないが、本来、水は自然界に存在しており、誰もが利用できるものであった。前近代、水は村落や共同体の共有資源として、共同管理されていたのだ。
しかし、資本主義の発展のもと、水は商品として売買の対象となる。産業革命により人口が増え、都市部で安全な水の供給が求められるようになった。その過程で、水道水の供給が事業化された。水が市場で管理されるようになったのだ。1980年代以降、市場の自由競争をうながす新自由主義的な経済政策のもと、多くの国で水道事業が多国籍企業に売却されていった。日本の水道事業は基本的に市町村が運営しているものの、世界的に見れば、水は「公共財」から「企業の利益を生む商品」へと変化した。
このように、資本主義は、あらゆるものを市場で取引可能な「商品」へと変え、経済活動を拡大していく。水は、商品化された代表的な資源のひとつだ。
■ 私たちはなぜ「働かないと生きられない」のか
なぜ、私たちは生きるためにお金を必要とするのか。
その理由は、資本主義経済のもとでは生活に必要なモノやサービスのほとんどが商品化され、それらは貨幣を通じてしか手に入らなくなっているからだ。
さらに、資本主義による商品化は、賃労働の普及と密接に結びついている。資本主義のもとで、労働力さえも商品とされたのだ。
かつての農村社会では、多くの人びとが自給自足的な生活を営んでいた。しかし、近代資本主義の発展とともに産業化が進み、土地を失った農民たちは生計を立てるために都市へ移動せざるを得なくなった。こうして工場で働く労働者が増え、彼らは資本家に労働力を提供することで賃金を得るようになった。労働力が、資本家に売られる「商品」となったのである。
こうして、賃労働は社会の主要な労働形態となっていった。
■ 誰もが賃労働を避けられるわけじゃない
当初の問いに立ち返ろう。
賃労働は、生きるための絶対条件なのか。現行の資本主義社会で生きる以上、原則として答えはイエスだ。
資産家や不労所得者は賃労働をせずとも生きていける。しかし、資本を所有する側の人間はごく少数に過ぎない。
また、年金受給者や生活保護受給者、家族の扶養を受ける者も、賃労働なしで生活できるだろう。だが、彼らもまた少数派にとどまる。
さらに、社会制度の恩恵や、家族の庇護を受けられるかどうかは、個人の社会的背景や環境に大きく依存する。したがって、それは誰にでも開かれた選択肢ではないのだ。
■ 低コスト生活という生存戦略
では、働かずに生きたい人びと、ひいては私が、取りうる選択肢には何があるのだろうか。
ひとつの選択肢として、「低コスト生活の徹底」が挙げられる。お金をほとんど使わない生活を実践することで、賃労働の必要を減らすのだ。
その代表例が、ゆるふわ無職氏が著書『寝そべり族マニュアル——なるべく働かないで生きていく——』で紹介している「寝そべり族」だ。彼らは支出を抑え、生きるのに最低限必要な分だけ働く。詳しくは、同書を参照されたい。
低コスト生活のもうひとつの具体例として、ノマド生活者がいる。彼らは、都市の外れや海外の物価の安い地域で暮らし、生活費を押さえている。東南アジアで暮らすデジタルノマドが典型的な例として挙げられる。
これらの生活スタイルの共通点は、お金がかかる生活から脱却することで、稼ぐ必要そのものを極力減らすことにある。一定数のニートは、すでに低コスト生活を実践しているのではないか。私自身も、お金を極力使わない生活を送っているニートのひとりである。
最低限の労働は必要となるものの、これは「働かずに生きる方法」としてもっとも現実的な選択肢と言えそうだ。
しかし、これだけが唯一の道ではない。
私がもうひとつ提案したいのは、「コモンの活用」という選択肢である。
■ コモンとは何か? ——共同管理される資源の仕組み——
コモン(またはコモンズ)とは、特定のコミュニティが共同で管理・運営する資源や仕組みを指す。もともとは共有の土地を指す言葉であったが、現代では知識、環境、技術、インターネット空間なども含めた広い概念として使われる。
特徴として、私有化・商品化されずにみんなで使える点、利用者自身が管理ルールを決める点、持続可能性を重視し、次世代にも残せるように運営する点がある。
コモンの具体例として、地域コミュニティが共同管理する森林・水源・漁場といった自然資源、そして、ウィキペディアのような知識の共有システムがある。前者は「自然資源のコモン」、後者は「知識のコモン」と呼ばれる。
コモンは、資本主義のあらゆるものを商品化する流れに対抗する仕組みとして、近年注目されている。実際、2021年の新書大賞一位となった斎藤幸平著『人新世の「資本論」』(集英社、2020年)では、コモンの重要性が説かれている。
現代の資本主義社会では、多くの人が賃労働に依存して生活している。しかし、コモンが発展すれば「賃労働せずとも生きていける選択肢」が増える可能性がある。
賃労働に対するコモンのカウンター的な要素として、生活資源のコモン化がある。シェアハウスやシェア農園のように、生活必需品をコミュニティでシェアするのだ。
「コモンの活用」において、予想される批判のひとつに、「コモンを活用しても、結局は労働することになる(=体力や知力を使って生産活動を行うことに変わりはない)」というものがある。
この批判に対しては、「コモンの活用」では好きなことを生産活動の中心にできる、という反論が考えられる。
賃労働の多くは、生計を立てるためにやらざるを得ない仕事である。一方、コモンの中で行う活動は、生きるために必要な活動であっても、他者に搾取されることなく、自由に行える。
決定的な違いは、生産活動の目的にある。賃労働では会社の利益のために働くが、「コモンの活用」においては共同体の維持のために働く。その結果、不要な仕事(いわゆるブルシット・ジョブ)を減らし、より価値のある活動に時間を割けるようになる。
ここで、話を本題に戻そう。
コモンを活かし、賃労働に依存せずとも生きていくのが、私の理想である。
しかし、日本や世界において、コモンが「働かずに生きていけるほど」発展してはいない。
では、いかにして、コモンの拡張を図るのか。
コモンを管理・発展させる主体としての、アソシエーションおよび中間団体の働きについて考えていきたい。
■ アソシエーション(中間団体)とコモンの関係
アソシエーションと中間団体は、どちらも、国家と個人の間に位置する集団を指す。しかし、両者には少々相違点がある。
アソシエーションは比較的小規模で、自発的な集まりを指すことが多い。一方、中間団体は広義の概念であり、経済活動や宗教団体も含む。アソシエーションは中間団体の一種だが、特に「自発的な市民の集まり」というニュアンスが強い。
これらは、コモンを管理・維持するための仕組みや、コモンを共有する人びとのネットワークになりうる。
例えば、コモンとして地域通貨を使用する場合、地域金融協会のような中間団体がコモンの管理者として機能する。コモンとしてフリーソフトを開発・公開する場合、その運営主体は開発者グループのようなアソシエーションになるだろう。
察しのいい読者はすでに気づいているかもしれないが、ニートマガジン(以下ニーマガ)もアソシエーションとみなすことができる。
私たちはマガジン作成という共通の目的のもとに集り、活動している。つまり、ニーマガはアソシエーションとして機能しているのだ。
ニーマガは「知識の共有」をコンセプトのひとつとして掲げ、誰もが読めるようウェブ上で公開されている。つまり、ニーマガはコモンなのだ。
このように、コモンの発展にはアソシエーションや中間団体が重要な役割を果たす。しかし、日本ではアソシエーションを含む中間団体の活動が、欧米諸国と比べてそれほど活発ではない。
この背景には、日本の歴史や文化が深く関わっている。
■ 日本で中間団体が発展しない歴史的・文化的背景
歴史的に、日本は長期間にわたり中央集権的な政治体制が続いてきた。そのため、国家と個人の間に位置する中間団体(アソシエーション)の発展は抑制されてきたと考えられる。特に、明治維新以降の近代化の過程で、国家主導の改革が優先され、市民社会の自発的な組織形成が十分に促進されなかった。行政が市民の生活を支えてきた結果、「市民が自分たちで社会を変えよう」とする自治意識は低くなった。
日本社会の文化的特性として、同質性や集団主義を重視する傾向がある。この傾向により、異質な価値観や多様性を持つ集団の形成が難しくなり、中間団体の活動を制限する要因となっていると考えられる。
しかし、日本におけるアソシエーションの活性化は不可能ではないと考える。カギを握るのは、ニートの連帯だ。
さて、そろそろニート諸君らの出番である。
■ 労働を前提としないコミュニティの可能性
第一に、ニートは「市場に居場所がないからこそ、中間領域が必要」と考えられる。
ニートの多くは、「働かない=市場での役割がない」と見なされ、社会的に孤立しがちである。しかし、社会との関わりを完全に断ちたいわけではなく、市場経済とは異なる形のつながりを求めているのではないだろうか。
かくいう私も、バイトを辞めたのをきっかけとしてニーマガに参加した。社会とのつながりが薄くなり、孤独感を覚えた自分にとって、ニーマガは帰属意識を感じられる居場所のひとつとして機能している(ここまで書いておいてなんだが、実は約二週間前に参加したばかりである! それでもささやかながら帰属感を感じており、ニーマガの存在は私のメンタルヘルスに大いに役立っている)。
労働を前提としない「中間領域のコミュニティ」は、ニートの居場所になりうるのだ。
また、ニートは「同質性から外れた存在」である。
日本社会は一般的に、同調圧力が強く、労働が社会参加の前提とされる文化がある。この中で、働かない・市場に適応しないニートは、集団主義の外側にいる存在とも言える。
マイノリティであるがゆえに、新しい社会の在り方を模索しやすいのではないか。既存の経済構造へのコミットメントが低いからこそ、市場に存在しないアソシエーション型の社会を創る動機がある。
さらに、ニートの存在がアソシエーション活性化に寄与する可能性を述べておこう。
アソシエーションは、国家でも市場でもない「第三の場」として役割を果たす。しかし日本では、市場に組み込まれた人びとが多すぎる。つまり、ほとんどの人が会社(市場)に依存しており、「中間の場」を必要だと意識することが少ない。既存の労働社会に属さないニートだからこそ、「第三の場」を創る側に回れるのではないだろうか。
■ ニート・アソシエーション——多様な活動の可能性——
アソシエーションとコモン(共有資源)を組み合わせ、ニートが自由に集まって活動する場を作ることはできないだろうか。
例えば、次のような活動の場が考えられる。
- 読書会、哲学カフェ、ボードゲーム会など文化的交流の場
- 共同農園やリサイクルセンターを運営し、軽作業や環境活動に関わる場
- プロジェクトベースでアートや研究を行う場
これらは「コモンベースの共同空間」と呼べるだろう。
コモンベースとは、個人の所有や市場経済の論理ではなく、共有資源(コモン)を共同で管理・利用する仕組みに基づいた空間のことである。「みんなで持ち寄り、みんなで使う」ことを前提とするような共同空間のことだ。
さらに具体的な特徴を述べるなら、「私有でなく、共同管理(誰かひとりの所有物ではなく、ルールを決めて管理)」「営利目的ではなく、共助の場(利益を追求せず、参加者がお互いに助け合う)」「お金だけでなく、労力・知識・モノの交換も可(貨幣経済に依存しない関係)」といった点が挙がる。
pha氏のギークハウスプロジェクトや山奥ニートは、先例と言えるだろう。どちらも、ニートが自発的に集まり(アソシエーション)、空間をシェア・共同管理して生活している(コモン)。
必ずしもアソシエーションとコモンを組み合わせる必要はないと考える。だが、コモンという仕組み自体が、ニートと相性が良いのではないだろうか。コモンは市場に属するものではなく、メンバー間でシェアされるものだからである。
■ ニート・アソシエーションの展望
個人の意見として、社会人サークルが当たり前にあるように、ニートサークル(ニート・アソシエーション)も当たり前に存在する社会にならないだろうかと思っている。
もちろん、メンバーがニートである必然性はない。ニーマガのように、ニートな人、働きたくない人に広く開かれているとよい。
現代社会では、資本主義の倫理が私たちの心身を深く蝕んでいる。だからこそ、資本主義から離れた場所で、ニートが集まり活動することに意義が生まれるのではないだろうか。
ニートや無職は決して無価値なのではない。もし彼らに価値を見出せないのだとしたら、それは社会のほうに問題があるのではないか。
私たちニートが、新たな価値観をもって社会に働きかけるときは、そう遠くないのかもしれない。
■ まとめ
「働かないと生きられない」というのは、はたして普遍的な真理なのだろうか。
資本主義社会においては、働くことが生存の前提とされている。だが、その前提そのものが、資本主義の構造の中で作られたものではないだろうか。
かつては共同体の中で支え合いながら生きてきた人間が、今や労働市場に組み込まれ、働かないと生きられない状況に追い込まれている。それならば、資本主義に組み込まれずに生きる道を探ることもまた、ひとつの選択肢ではないだろうか。
ニートという生き方は、単なる「怠惰」ではなく、この社会の在り方を問い直す可能性を秘めているのかもしれない。