Keyboard shortcuts

Press or to navigate between chapters

Press S or / to search in the book

Press ? to show this help

Press Esc to hide this help

正気と沈黙の梵唄

安眠計画

■ はじめに:正気を求めて

 みなさんは「正気」ですか? この問いに答えようとするとき、われわれは自らの実存と直面せざるを得ない。現代社会において、「正気」は一体何を意味するのか。それは単なる冷静さや理性ではなく、消費文化からなる喧騒と、効率が支配的な時代において、あえて「問い続ける力」を持ち、自己(とされるもの)を発見し、まったくコントロール不能な世界と再びつながり直すための沈黙にあると霊感している。

 しかし、ポスト・トゥルースの混乱、消費文化の暴走、働き続けることが至上命題と化した社会の中で、この正気を保つことは容易ではない。西洋的な観念で言えば、これはアーレント的意味での「活動」の喪失に通じるものであり、人的存在がただの「労働する存在」へと矮小化され、真の自由を失っている状態である。そして東洋思想――特に禅や老荘思想の視点から見れば、それは自然の流れを外れて自己を見失い、不自然な努力に苛まれた「無明」の状態であると言えるだろう。

 少し前に、メジャーリーガーの大谷翔平が八面六臂の活躍を見せたとき、「われわれは大谷サンが主人公の物語のモブである」みたいなことを云っている人たちがいて、苦笑したことがある。「主人公」は、本来は巷間言われているような演劇用語などではなく、『無門関』第十二則にある歴とした禅語だ。以下簡単に紹介する。

 中国・唐代に名を馳せた瑞巌和尚は、愚者の如く巌の上に坐しながら、

 「おい、主人公」

 「はい」

 「はっきりと目を醒ましているか」

 「はい」

 「いいように騙されていないか」

 「はい」

 と、毎日自分自身に呼びかけていたらしい。やはり禅僧はイカれている(誉め言葉)。

 閑話休題。本稿では、ポスト・トゥルース社会がいかにして我々の正気を侵食しているのかを振り返った上で、西洋哲学と東洋思想を交差させながら、古くて新しい智慧――「創造的空白」――を探求する。その中では「沈黙」と「働かない」という行為を中心に据え、内的静寂がいかに現代社会において必要不可欠な力となりうるのかを論じる。西洋と東洋の思考が共鳴するところに、「正気」の新しい実践の可能性が見出せるのである。

 結論を先に述べる。正気を取り戻すとは、絶えず問い続ける人間の本質を回復することであり、喧騒から離れて沈黙すること、「働かない」ことで自然と調和する道を再発見することである。それは、我々が忘れ去った智慧を取り戻し、世界と本来的につながり直すためのマージナルで自由な空白地帯となるだろう。

■ 第一章:ポスト・トゥルースと消費文化――正気の侵食

 ポスト・トゥルース時代。それは単なる「真実より感情が支配する時代」を意味しない。この表現の背後には、現代社会の深層に横たわる病理が隠されている。それは、事実そのものよりも「信じたいもの」への依存、他者や世界との複雑なつながりを断ち切り、一方向的な自我の確証に囚われる心性である。この状況の根幹に働くのは、SNSやインターネットに象徴される情報過多の時代であり、人間は「情報消費の対象」として、システムに取り込まれてしまっている。

 さらに、それに結びつくのが無限の消費を煽る文化である。この消費文化は我々に「贖い続けろ」と命じ、静止や休息を怠惰や敗北であるかのように見せかける。人間の行動は、SNSの投稿、広告の閲覧、そして商品の購入といった一連の循環に従属させられ、自らを見つめる静寂の機会が奪われているのだ。

 これはハンナ・アーレントの批判する「労働の絶対化」に重なる。アーレントは『人間の条件』において、人間の営みを「労働(labor)」「仕事(work)」「活動(action)」の三つに分けた。労働は生命を維持するための反復的で単調な行為だとされる。

 我々は消費文化と適切な距離を置き、労働(労働に従事するだけの存在)から解放され、世界への新しい意味づけを行う「活動」に戻らなければならない。だが一方で、東洋思想――特に禅や道教の境地においては、この状況は「無駄な努力」の象徴とも言える。老子が言うように、「無為自然」に従うところからしか、人間は本来的な自己や自然との調和を得ることはできない。では、これらの複合的な視点から、どのように「正気」を回復することが可能だろうか?

■ 第二章:静寂の智慧――沈黙という実践

 沈黙。

 それは現代社会では「情報消費」が強制される中で最も失われつつある態度である。われわれは常に頭の中で何かをつぶやき、心の中の分からず屋と絶えず論争している。そうした内語によってデザインされた人生哲学の蓄積は、ふとした瞬間にまったく異なる他者との、当意即妙のカンバセーションに昇華したりもする。これは終わりなき消費活動と黙ることのない脳内議論が、有意義な対話を生むという観点だ。

 しかし沈黙は、人間の智慧を呼び起こし、自らと世界を問うための「根源的な空間」である。ジョルジュ・バタイユが述べたように、沈黙は自己と他者を引き離すのではなく、むしろその境界に立つことで新しい次元の問いを引き受ける場となる。

 三度禅の思想に触れるならば、沈黙はただの「無言」ではなく、むしろ絶え間ない思念や言葉の喧騒から解放される手段であると言える。道元禅師は大著『正法眼蔵』において、坐禅を「只管打坐(ただひたすら坐る)」と説いたことは以前(ニーマガvol.1)にも書いたが、坐禅は単に身体的な静止ではなく、言葉や概念を手放し、世界そのもの、目の前の「現実」を直観する実践である。沈黙は、内的世界と環境世界を同時に観じるためのワークなのだ。

 本来、沈黙は孤立的なものではない。むしろ他者との関係性を繋ぎ直す「間」として機能する。他者と静粛を共有する時間や、言葉を超えた理解の瞬間は、それが西洋哲学であれ東洋の教えであれ、あまりにもうるさすぎる現代社会において、正気を回復する唯一の道ではないかと霊感している。

■ 第三章:無為自然

 「働かない」とは、西洋的には単なる労働の否定というよりも、消費社会や効率至上主義に従うことを拒否し、新しい生の可能性を追求する選択である。それはカミュが言ったように「反抗の最初の行為」であり、より深いレベルで自らの存在意義を模索する道でもある。

 一方、禅や老荘思想の視点から見ると、「働かない」という選択は労働そのものの否定ではなく、「過剰に頑張ること」、つまり自然に反する行為を手放す態度である。老子曰く「道常無爲、而無不爲(道は自分からとくに何かをするわけではないが、道によって成し遂げられない事はない)」。

 この一節は、一切の努力を否定しているわけではなく、「自然の流れに沿った働き方」を指している。現代社会が押し付ける効率性や目的論に従わず、自身のバイオリズムや在り方に忠実であること。それが「働かない」という選択の本質であり、本マガジンの発起人であるゆるふわ無職くんなどが実践している「ラディカルな無職へのこだわりを捨て、労働体操としてほどほどにコミットする」という働き方(働かざり方)に老荘思想を感じてしまうのは俺だけではないだろう。

■ 第四章:創造的空白

 ここで本稿の中心的な概念、「創造的空白」を提案する。この創造的空白とは、西洋哲学における「問い続ける意志」と、東洋思想における「自然との調和」の交差点に位置するものである。それは、沈黙と働かないことを通じて喧騒の「社会」なるものから身を引き、新しい在り方を見つけるための、なんのバリューも生み出さない寂寞とした空間である。

 この空白とは、単なる「何もしない時間」ではない。それはアクチュアルな「現実」を問い直し、他者や自らと本来的につながり直すアジールとしての場である。効率的に何かを生み出そうとしないが、同時にその実践が新しい生とささやかな意義をもたらす。道元禅師の「只管打坐」や、アーレントの「活動」の中に共通するのは、この「余白の力」の重要性ではないだろうか。

■ 結論:正気に立ち返る智慧とは

 正気とはただの冷静さではなく、喧騒の中でも問い続ける意志であり、そのための沈黙の実践、社会的要請から解放される勇猛精進である。東洋と西洋に共通する智慧の交差点において、この「創造的空白」が新しい道筋を示している。それは、生きる意味を問い直し、実存的問題に苦悩しながらも、ただ静かに端坐している。「ただ在るだけでfulfilled」というエートス。言い換えれば、差異化によって生じる相対的な幸福感ではなく、ただ存在するだけ、ただ、今・ここに在って呼吸しているだけで、それだけで「充分に満たされている」という、この世界における居住まい方が坐禅や念佛という創造的空白によって養われていく。

 「共鳴する静寂」などと書くと陳腐な撞着語法のようだが、しかしわれわれは単なる修辞的な技法を越えて、互いの空白を共有できる。いやむしろ、この産業社会にとってまったく無価値なものにこそ、剝き出しの道が現前しているものだ。このニートマガジンなんて、創造的空白の最たるものではないだろうか。

 「無」を他者と共有できるのは楽しい。どうせ死ぬなら、楽しみながら正気の声明を唄おうや。

 合掌