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労働なき新世界へ

久保一真

 おお、ニートたちよ。労働者たちよ。世に蔓延る厭世主義者や冷笑主義者たちよ。これ以上、労働を愛するのはやめよ。嬉々として労働の軒先を掃き清め、窓を拭き、門を塗り直すのをやめよ。おまえがそんなことをせずとも、労働は傷の一つもついていない。塵一つも纏ってはいないのだ。だが、労働など天にも届く巨大なハリボテにすぎない。なにもボーイング機を突っ込ませる必要はない。その足元を少し小突くだけで、数本の柱を抜き取るだけで、おまえの懸命な清掃作業もむなしく、労働はジェンガのように崩落するだろう。

 それなのになぜおまえは、労働を愛し続けるのか? 口先では労働を憎み、Xに労働への呪詛を垂れ流しているではないか? おまえたちが労働の防衛に注ぎ込んできたエネルギーのほんの一部を攻撃に向けるだけで十分だ。それだけで労働は崩れ去る。そして、焼け跡に労働なき新世界をつくればいい。新世界の建設は、人類が成し遂げてきたなかでも、もっとも簡単で、もっともエキサイティングなプロジェクトとなるだろう。ゲームの順番待ちをする子どものように、人々は「我先に!」とコントローラーを欲するだろう。しかし順番待ちは必要ない。万人がコントローラーを握ることができる。もうすでに握っているのである! 人類は労働を正当化するための教育あるいはプロパガンダに悠久の時間と労力を注ぎ込んできた。おそらく労働そのものに費やした時間と労力をも上回るほどに。しかし、労働を廃絶するために、労働が廃絶された社会において人々が幸福に生きるために、いったいどんな教育が必要だと言うのだろうか? もしなんらかの指針が必要だったとしても、それは人々のうちから自ずと湧き上がるだろう。

 マルクス主義者も、リバタリアンも、リベラルも、フェミニストも、アナキストも、加速主義者も、宗教者も、ノンポリも、果てしのないレスバトルを繰り広げているが、私からすれば労働至上主義者の内ゲバにすぎない。いや、内ゲバですらないだろう。これは労働の神の前でプレイされる、なれ合いのゲームである。「労働は必要である」という不可解なルールにのっとって、彼らは仲良く手をつなぎながらゲームをプレイする。そして、ポイントを奪い合うように権力を奪い合う。私が「労働は必要ない」と割って入ったところで、空気の読めないアスペルガー扱いされるのがオチであろう。

 その神聖なゲームに割って入ったのは、おそらく有史以来、私とボブ・ブラックの二人だけであった。ラファルグは『怠ける権利』を書いたし、ラッセルは『怠惰への賛歌』を書いたが、実際に書かれたのは『労働させる権利』であり『労働への賛歌』である。彼らは労働の衛兵を少し小突いただけで痛烈な一撃を加えたかのような顔をして祝杯をあげてきた。しかし、その祝杯は労働へと捧げられていたのだ! ニートたちもまた、労働を守る取り巻きと化している。私が労働を攻撃したとき、真っ先に迎え撃ってくるのは決まってニートたちであった。むしろ彼らは労働者よりも労働の神話にからめとられている。労働者はときに労働なき新世界の扉を開く。向こう側に行くことは決してないが、それでも向こう側の景色を知っている。しかし、ニートは知らない。少なくとも旧世代のニートは知らない。

 「私は労働を愛してなどいない」とおまえは反論するだろう。では、お前はボブ・ブラックのように「誰一人として労働すべきではない」と高らかに宣言することができるのか? あるいは『14歳からのアンチワーク哲学 なぜ僕らは働きたくないのか?』に登場した哲学者ニケのように「労働は悪なんや。世の中から撲滅された方がええ」と断言できるのか? できやしない。おまえ自身は労働をしたくないと思っている。しかし、おまえは少なくとも「誰かが労働しなければならない」という考えを決して手放しはしないだろう。その考えこそが労働を愛撫し、労働を労働たらしめ、労働を世にのさばらせていることに、おまえは決して気づかない。

 だが、おまえが新世代のニートであったなら、そうはならない。新世代のニートたちは、労働なき新世界のピルグリムファーザーズとして、すでに新世界に上陸し、権力という雑草を抜き、支配という小石を拾いオモチャに変えている。彼らはただ遊ぶ。「生産」と「消費」という労働によって生み出された二分法を忘れ去り、夢中で遊んでいる。知らず知らずのうちに生産と自由を重ね合わせている。しかし旧世代のニートたちは、非生産という労働に縛り付けられている。むろん、非生産も本来は遊びであるべきだろう。だが、あらゆる行為が労働と化すように、いまや非生産すらも労働と化しているのである。

 労働の廃絶とは、難解な比喩表現ではなく、文字通りの意味である。私やおまえだけではなく、地球上の誰一人として、ロボットやAIすらも、一秒たりとも労働しないことを意味する。それはつねに人類の目と鼻の先にあった。労働が誕生したその日から、労働の廃絶はずっと可能だった。そして、『労働廃絶論』も、アンチワーク哲学も、ずっとそこにあったのだ! 私はただ、それを拾い上げたにすぎない。労働の廃絶とは大言壮語でもなければ、永遠に到達しない夢物語でもない。私は極めて妥当で、極めて現実的な推論のもと、労働の廃絶が可能であると主張する。繰り返すが、きっとおまえは信じることができないだろう。血管の隅々までいきわたった常識が、おまえが信じ込む「現実」とやらが、労働の廃絶というテーゼに対してアレルギー反応を起こさせる。しかし、未来の人びとはおまえのアレルギー反応を笑うだろう。おまえや、加速主義者が語る「AIに労働を代替させよう! もうすぐシンギュラリティが訪れるのだから!」といった夢物語を笑うだろう。そんな真似は不可能であったと、シンギュラリティなど永遠に来ないと明らかになって未来人は落胆しているに違いない。もし、シンギュラリティにいまだ希望を抱く人がいたとすればだ! 代替させる労働など、未来においてはとっくに消え去っているのだ。誰が切実にロボットやAIを欲するというのか? そんなものがなくとも私たちは、ありとあらゆるエンタメを味わい、テクノロジーを享受する。誰も支配されず、誰も労働せず、誰もが自由であり、誰もが幸福である。コカ・コーラやプレイステーション、ディズニーランドすらも、人々が欲するのであれば生み出され続けるだろう。そのような未来の息吹を感じ取っている者はまだ多くはないが、遅かれ早かれ訪れると断言しよう。そうだな……二〇四五年といったところか。そのころには労働なき新世界が到来するであろう。

 私は論理的思考力を欠いた狂人ではない。あるいは、悠久の思索の果てに深淵な哲学を編み出した孤高の賢人でもない。そのことは、私の多くの知人、友人たちが証言してくれるだろう。私は真っ当な思考力を保有し、常識やマナーを理解した凡人である。初対面の人には名刺を(下から!)差し出し、葬式では黒いネクタイを締め、居酒屋では人数分のお冷をオーダーする凡人である。しかし、狂った社会では、まともな人間こそが狂人に見える。そして、狂った社会でまともに見える人々も、狂った社会にすらも適応できるほどにまともである。おそらく万人はまともである。だが、まともすぎるのだ。このように狂った社会を正当化してしまうほどにまともな人類なら、労働のない正常な社会を滞りなく運営することなど、わけもない。労働があっても人々は社会を成り立たせてしまうのだ。労働のない社会を成り立たせることなど、どれほど容易いことか! 私は人類を誇りに思う。このようにまともな生物種を生み出した自然を誇りに思う。ただし、労働などという悪を生み出してしまったことが、人類の最大の汚点である。そしておそらくは唯一の汚点であろう。あらゆる悪は労働から生み出された。あらゆる実存的問題は労働によって生み出された。いい加減、労働という悪を根絶やしにすべきであろう。

 おまえが議論したいのであれば、私はとことん付き合おう。議論の果てに、もし労働の廃絶が不可能であるという決定的な証拠や、労働の廃絶可能性は不可能性よりも低いのだという決定的な証拠を突きつけられたなら、私は喜んで自説を撤回しよう。そして企業に履歴書を送り、真っ黒のスーツを着て面接に繰り出そう。もとより私は真面目でまともな人間である。憑りつかれたように労働のゲームをプレイしているおまえたちの間に割って入るような真似は本来はしたくない。せずに済むのなら、それに越したことはないのだ! だが、万人が血走った目で労働のゲームをプレイし、白熱しすぎるあまり社会が崩壊しているのであれば、私がそれを止めずにいるのはむずかしい。赤子が井戸に落ちようとしているのに、我が身を顧みている暇などないのである。

 労働は社会を破壊し、自然を破壊しつくそうとしている。文字通りの意味でも比喩的にも私たちを殺し続けている。労働をやめさえすれば、あらゆる問題はたちどころに解決されていくことだろう。解決を望まない人がどれだけいることだろうか? 労働によって解決を阻止されているのでなければ、好きなだけ解決すればいいのだ。いまや労働を正当化する根拠は、私には一つも思いつかない。どれだけ理屈をこねまわそうが、一つたりとも思いつかないのだ!

 ニートたちよ。まだ遅くはない。労働を愛するのをやめ、労働なき新世界を生き、労働なき新世界を生み出すことは可能である。もしおまえが、それを望むのであれば!