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ニートと偶然性

ゆるふわ無職

 「これ」は何なのか? 僕が真っ先に問いかけたいのはそのことである。

 おそらく、ほとんどの人は「いきなり何を言っているのかよく分からない」という反応を示しているだろう。いや、「これ」である。今あなたの目の前に広がっている「これ」である。あなたがこのテキストをPDFファイルで読んでいるのか、紙の冊子で読んでいるのかは分からないが、電子デバイスや冊子を一旦置いて、ゆっくりと周りを見渡してみてほしい。「これ」は何なのだ?

 最も現実的に多くありえる状況として、あなたの自室を想定してみよう。テーブル、ベッド、本棚、窓、照明……、そうしたあたりまえの光景が広がっているはずだ。だが、その光景は本当に「あたりまえ」なのだろうか?

 例えば、「テーブル」について。テーブルとは、天板と4本の脚で構成された台のことである。作業をする、食事をする、物を乗せる、そうした用途のために利用される家具である。あなたはテーブルというものが確固たる実体として、そこに在ると思い込んでいるはずだ。だが、そのような存在のことを「テーブル」と呼ばなければならない――すなわち、恣意的な名付けによってその存在を囲い込む――理由はあるのだろうか? これは「机」「デスク」「ちゃぶ台」など、他の名称についても同様である。

 この問題について考えてみると、結局は「そうだからそう」としか言いようがないルールに従っていることに気が付く。僕らがテーブルのことを「テーブル」と呼ぶのは、過去の人々が「そうした用途のものを、そう呼んできたから」であり、新参者の僕らがコミュニケーションに参加するためには、そのルールに盲目的に従うしかなかったのである。ゲームのルール説明に対して、いちいち「なんでそうなの?」と質問をしてみたところで、苦虫を噛み潰したような顔で「それはそういう決まりのゲームだからだ」と返答されるのがオチだ(「なんでサッカーはゴールにボールを入れると点数が入るの?」「それはそういう決まりのゲームだからだ!」)。僕らが日常的に慣れ親しんでいる言語ゲームにおいても、テーブルを「テーブル」と呼ぶのは、「そういうルールだから」と説明するほかないのである。

 だが、この世界はゲームではない。現実の会話においても、こうした文章においても、相手に意図を伝えるためには「テーブル」という言葉を使わざるを得ないが、別にテーブルを「テーブル」と呼ばなければならない絶対的な理由が存在するわけではない。つまり、僕にはテーブルを「テーブル」と呼ぶ必然性が分からない。僕にとってテーブルとは、確固たる実体としてそこに存在しているものではなく、不条理で偶然的な混沌が、実生活・実社会の営みのために、暫定的に形を成しているだけにすぎないのである(ここで誤解のないように追記しておくと、「テーブルを『テーブル』と呼ぶのが納得いかないなら、『天板と4本の脚で構成された台』と呼べばいいじゃないか」という話ではない。そうした呼び方をしたところで、今度は「天板」や「脚」などの言葉に対して、「なぜそれらはそう呼ばれなければならないのか?」と疑問が湧き上がり、問題が複数に分裂するだけである)。

 こうした名付けによる存在の枠組みを解いてみると、あたりまえの光景はあたりまえでなくなっていく。ここで改めてあなたの部屋を見渡してみてほしい。テーブル、ベッド、本棚、窓、照明……。それらにはそう呼ばれる必然性がない。たまたま、偶然、昔の人々がそう呼んだからという理由で、そのような発音で世界が区切られるようになっただけである。必然性が取り払われた存在は輪郭が崩れ落ち、ドロドロとした何かとしか形容できない、根源的な「これ」に還元されていく。「これ」は何なのだ? 切実に、執拗に、病的に、僕が冒頭から問うているのは、そのことについてである。

 さて、そろそろこのように思っている方も少なくないだろう。「お前は一体何の話をしているんだ?」と。この文章は「ニートマガジン」に寄稿された文章である。ニートマガジンは「ニートな文章」を載せる場であり、よく分からない「偶然性」の話を聞きに来たわけではないと困り果てている方も多いはずだ。だが、僕に言わせれば、「ニート」と「偶然性」は引き離せない関係にある。なぜなら、ニートとは必然性を失ってしまった存在だからだ。

 「ニートは存在している価値がない」、という批判はよく耳にすることだろう。一般的な価値観に照らし合わせればその通りで、普通の人々は社会の一員としてその役割を果たしているが、ニートは何もせず、タダ飯を食らい、クソを垂れるだけである。存在している価値がない。別にいなくてもいい存在だ。

 ここで、日本の哲学者、九鬼周造は偶然性の定義について、以下のように述べている。

 偶然性とは必然性の否定である。必然とは必ず然り有ることを意味している。すなわち、存在が何らかの意味で自己に根拠を有っていることである。偶然とは偶々然か有るの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を有っていないことである。すなわち、否定を含んだ存在、無いことのできる存在である。〔……〕偶然性にあって、存在は無に直面している。

(九鬼周造『偶然性の問題』岩波文庫より)

 偶然とは「たまたまそうある」という意味で、存在が自己のうちに十分の根拠を持っていない――すわなち、無いことのできる存在である、と九鬼は言う。ここで分かりやすいのは「サイコロ」だろうか。サイコロを振って「1の目」が出た。これは典型的な偶然である。そのサイコロは「1の目が出たサイコロ」で無いことのできる存在だ。別に、「2の目」でも「3の目」でもよかったわけなのだから。

 さて、ここで他でもないあなたに問うてみたい。あなたが今ここに存在していることは「必然」だろうか? 「偶然」だろうか?

 ここで議論の要点となるのは、「なぜ私は私なのか?」というポイントだろう。おそらく、ほとんどの人々――社会の中で働いて生きている人々は、その頭の中に「私が私である根拠=必然性」を持っている。それは人間関係における「肩書き」や「役割」であると言ってもいいだろう。具体的に考えてみよう。

 「私の名前は山田 太郎だ。A商事の課長として働いている。そして、妻の花子の夫で、息子の勇太の父でもある。私が私である理由? それは私が『山田 太郎』であり、『A商事の課長』であり、『花子の夫』であり、『勇太の父』だからだ。そうした人間である故に、私は私なのである。それ以外ありえない!」

 「なぜあなたはあなたなのですか?」と問われたとき、このように人間関係の繋がりの中に「私が私である理由」を見出す者がほとんどだろう。仕事にしろ、恋愛にしろ、家庭にしろ、「あなたが必要なのだ」という取り替えがたさを他者から与えられたとき、人間は自己の中に必然性を見出すことができるものだ。

 もしくは、このように主張することも可能かもしれない。私は私にとって替えの利かない、そのような父と母から生まれた。それ故に、私の存在は「必然」なのである(紅茶と牛乳を混ぜたらミルクティーになることは必然だ。これはサイコロの目のように「コーラになっていたかもしれない」「メロンソーダになっていたかもしれない」ということはありえない〔と普通は考える〕)。

 だが、僕のように偶然性に晒されているニートから言わせてもらうと、それは必然ではない。自己の存在を必然だと思っている人間は、時間と空間を恣意的に区切り、そこに物語性を付与しているだけなのである。

 まずは、空間的なアプローチから主張していこう。最初のセクションで念入りに述べたように、「言語」というものはどうしても偶然性に依存している。だから、本当は「山田 太郎」も「A商事」も「妻の花子」も「息子の勇太」もそう呼ばれる必然性はなにもなかった。僕らは存在を言語で囲い込み、そこに現実という名の物語を付与しているだけなのだ(演劇の登場人物が、自分のキャラクターやハリボテの木に「偶然性」を抱くだろうか? 物語の中で生きている人にとって、疑いようのなく、私は「私」で、木は「木」なのである)。全ての枠組みを取っ払ってしまえば、そこではドロドロとした何かが、動き、交わり、運動を繰り返しているだけにすぎない。

 そして、時間的なアプローチにおいて、僕が反論すべきポイントは「私にとって替えの利かない、そのような父と母から生まれたのだから、私の存在は必然である」という部分になるだろう。これは科学的にも当たり前で強固な意見であるように思える。なぜなら、僕だって「僕の父」と「僕の母」から生まれていなければ、身体的特徴や精神性も含めて、僕は僕でなかったはずだからだ。

 だが、上記のように考える人は、「父」と「母」のことを絶対的で必然な存在として、そこに固定してはいないだろうか? 「私の存在は必然である。なぜなら、必然的な存在である父と母から生まれたからだ」という意見についてよく考えてみれば、それはコインの裏表のように「私の存在は偶然である。なぜなら、偶然的な存在である父と母から生まれたからだ」という意見に容易にひっくり返り得る!

 この問題は、突き詰めれば「宇宙の始まり」まで因果関係を遡ることになるだろう。なぜ私は存在しているのか? それは父と母が出会ったから。なぜ父と母は生まれたのか? それはそれぞれの祖父と祖母が出会ったから。なぜ私の先祖が生まれたのか? それは約20万年前にアフリカでホモ・サピエンス生まれたから。なぜホモ・サピエンスが生まれたのか? それは地球の原始生命が進化と増殖を繰り返してきたから。なぜ地球上に生命が生まれたのか? それは地球と太陽の距離が約1億5000万㎞だったから。なぜ太陽系が生まれたのか? それは約138億年前に宇宙が生まれたから。なぜ宇宙が生まれたのか? それはビッグバンが起こったから。では、なぜビッグバンが起こったのか? ……分からない。こればかりは現代の科学をもってしても解明不可能である。つまり、ここを「必然」と見做すか、「偶然」と見做すかによって、あらゆるものが必然であるか、あらゆるものが偶然であるか決定される。

 例えば、敬虔なキリスト教徒ならば、このように考えるだろう。「私が存在していることは必然だ。この世界が存在しているのは、『神の一撃』によって世界が創造されたからであり、私が存在しているのも、神がそのように私を造られたからである」と。「自己の存在を必然だと思っている人は、時間と空間を切り取って物語性を付与している」と先ほど僕は述べたが、この場合は世界の始まりから終わりまでを切り取って、そこに宗教という偉大なる物語を付与している、と解釈することができるはずだ。

 ここで問うてみたい。「あなたは宗教者なのか?」と。おそらく、ほとんどの人はNOと回答するだろう。勘違いしないでほしいのだが、ここで僕は「宗教をやっているのは非科学的でバカな人間だ」などと言いたいわけではない。むしろ、僕は宗教者に対して一定のリスペクトを抱いている方である。

 逆に、腹立たしいのは「現実主義で理性的な現代人」を気取ってのうのうと生きているあなたたちのような人間だ。なぜ平気なツラをして生きることができるのか? あなたは信仰を持たないのだから、この世界は偶然であり、あなたが存在していることも偶然であり、周囲に存在するモノも全て偶然であるはずだ。なのに、どうして正気を保って生きていくことができるのか? そうした無神経さに、僕は殺意に近いものを抱いていると言っても過言ではない。

 思弁的実在論の哲学者、カンタン・メイヤスーは、その代表作である『有限性の後で』で、以下のような強烈なパッセージを残している。

 事実性は、あらゆる事物そして世界全体が理由なしであり、かつ、この資格において実際に何の理由もなく他のあり方に変化しうるという、あらゆる事物そして世界全体の実在的な特性として理解されなければならないのである。〔……〕いかなるものであれ、しかじかに存在し、しかじかに存在し続け、別様にならない理由はない。世界の事物についても、世界の諸法則についてもそうである。まったく実在的に、すべては崩壊しうる。木々も星々も、星々も諸法則も、自然法則も論理法則も、である。

(カンタン・メイヤスー『有限性の後で』人文書院より)

 この世界は偶然だ。理由がない。底が抜けている。そう考えると、この次の瞬間に世界の法則がめちゃくちゃになってしまうこともあり得なくない。僕は上記のメイヤスーのこの主張に一言一句同意したくなる。もちろん、ここで「科学的にそんなことあるわけがない!」と反論したくなる方もいるだろう。だが、科学主義とは、データを集めて、「おそらく確からしい」と言っているだけにすぎない。「昨日も、今日も、東から西に太陽が昇った。だから明日もそうに違いない」、科学が主張しているのはそういうことである。これは帰納法に対する妄信と表現してもいいだろう。9999羽の黒いカラスを観察して、「絶対にカラスは黒い」と結論付けるのは正しいのだろうか? もしかしたら、次に現れる1羽のカラスは白いカラスかもしれないのに。

 もしかしたら、サイコロを振ったら「7の目」が出るかもしれない。もしかしたら、紅茶と牛乳を混ぜたらコーラができあがるかもしれない。もしかしたら、僕とあなたが急に入れ替わってしまうかもしれない。もしかしたら、パソコンの電源がシャットダウンされるように、意味もなく突然この世界は終わるかもしれない。なぜなら、この世界は偶然で、全てがたまたまなのだから。僕が抱えている神経症じみた偶然性の実感とは、このようなものである。

 ここまで、僕はある種の絶望と狂気を提示してきた。このマガジンを読んでいないような人々――社会で働きながら、自分の存在を必然だと思える人々はまだいい。だが、このマガジンを読んでいるようなニート(無いことのできる存在)は、この世界の偶然性にどう対処すればいいのだろうか? やはり、社会の繋がりの中に戻り、自分が自分である根拠(=必然性)を見出していくしかないのだろうか? ……いや、僕はそうは思わない。この偶然性をひたすら見据えた先に、未来の希望があると僕は考える。あえてブッ飛んだフレーズを述べてみよう。「全人類がニートになって、存在の偶然性を体得すれば、世界に平和が訪れる!」。そして、そのためには「偶然性の道徳」と「偶然性の神秘」が必要だ。

 まず、第一に「偶然性の道徳」とは何か。それは端的に言えば、「あなたと私は逆だったかもしれない」という偶然性を腹落ちレベルで実感し、その思いやりを他者に実践していくことである。

 そもそも、なぜ僕は21世紀の日本人として生まれたのだろうか? 考えてみれば、別に僕はマンモスを狩る古代人でも、スペースコロニーで暮らす未来人でもよかったはずである。いや、それどころか、犬や猫、魚やトカゲ、ゴキブリや微生物であってもよかったはずだ。それなのに、なぜか僕は「この私」なのだ。この問題に関しては、本当に「偶然」としか言いようがない。僕はたまたま21世紀の日本に生まれ、たまたま今の両親の元に生まれ、たまたまそのような環境で育ち、たまたま「この私」をやっている。

 少し前に「親ガチャ」という言葉が流行り、不謹慎だと世間から叩かれたが、僕に言わせてみれば、親ガチャという概念は大いに結構! 僕らは偶然的なガチャによって存在している、そうでないことのできた存在である。だが、ここから親ガチャ主義者に一歩進んで考えてみて欲しかったのは、「私とあなたは逆だったかもしれない」という偶然性、そして、そこから滲み出る道徳である。現代では、兎にも角にも「自己責任」や「本人の努力不足」という考えが一世を風靡している。だが、自ら望んで貧困や病気になった人などいるのだろうか? その人は、たまたまそのような身体と環境に生まれ、そのような人間をやっているだけにすぎない。僕が、あなたが、たまたまそのような身体と環境に生まれていたら、そのような人間をやっていたに違いないのである。

 誤解しないでほしいのだが、僕は道徳の教科書に載っているような「人にやさしくしましょう」という薄っぺらい標語を押し付けたいわけではない。むしろ、そんな文面には必然性がない。そう書いてあるからといって、何もそうする理由などない(道徳の教科書に「人をいっぱい殺しましょう」と書いてあったら、あなたは人を殺すのか?)。むしろ、僕はこの世界の「そうだからそう」「みんなそうしてるんだから」という価値観の押し付けを強く嫌悪している。

 道徳は、自らの手で発見しなければならない。湧き上がってくるもの、滲み出てくるものでなければならない。「私はあなただったかもしれない」という感覚は、偶然性を深く見据えることで、「あなたは私なのだ」に限りなく近く漸近する。全人類がその感覚を共有できたとき、自他の境界は崩壊し、世界は安寧な混沌に帰すだろう。

 そして、第二に「偶然性の神秘」である。なぜ、この世界は存在しているのか? これまで見てきたように、現代人の僕らにとっては「偶然」としか言いようがない。この世界は、無意味に、たまたま、わけも分からず存在している。それを恐ろしく思うときもある。叫びたくなるような、驚愕するような、吐き気を催すような、そんな不可解さである。だが、そうした感覚は裏返って、この世界に対する「神秘」にも転じ得る。

 目の前に現れては消える「これ」はなんなのか? 僕にはもはやそれを「世界」だとか名付ける気力も失ってしまった。あらゆる存在がのっぺらぼうのようになり、意味を失っていく。だが、そのような全体的な無意性は、全体的な有意性に突如反転を起こす。僕は与えられている。意味も理由も分からないが、全てを与えられているじゃないか。今ここに発生している五感をなぞりながらそれを深く実感する。存在のかがやき。もはや、その場に唖然と立ち尽くすしかない。すでに自分は満たされている!

 ……なんだかスピリチュアルな方向に向かってしまったが、僕はここで「特定の宗教を信仰しよう」と言いたいわけではない。むしろ、「祈りたいのに祈れない」というジレンマを抱き続けることが重要だと考える。第二セクションの「宇宙の始まり」の話では、宇宙の始まりを必然と見做すと、宗教的世界観が立ち現れると述べた。だが、それではダメなのだ。完全に「必然」になってしまってはダメなのである。あくまで、偶然の領域から、ギリギリまで「神秘」に近づく。これが全人類が調和するための前提条件である。なぜなら、絶対的な教義を持つ宗教にまで達すると、祈りの形が「手を合わせる」か「手を組む」かで殺し合いが起こったりするからだ。どちらもそんな必然性などない。祈りの形は分からない。祈りたいけど、祈れない。それでいい。そのままでいい。

 では、そろそろまとめに向かっていこう。なぜ僕が「偶然性の道徳」と「偶然性の神秘」に近づけたかといえば、それはニートだからである。肩書きも役割もなく、時間だけが大量に与えられた、何もない人間による無限の壁打ち。そうした自問自答が、偶然性への探究に自分を向かわせた。

 全世界の人間がニートになれば、他者に対する真の思いやりが湧き上がり、無条件に存在そのものに幸福を見出すことができる。これが僕の考える世界平和の光景だ。

 もちろん、課題はある。「それをどうやって実現していくのか?」ということだ。個人単位やグループ単位での実行から始まっていくのか。それとも、社会に働きかけ、ベーシック・インカムで人類総ニートを目指すのか。まだまだ具体的な方法については検討が必要だ。

 また、ここで「そんなものは無職の妄言であり、非現実的な絵空事にすぎない」と批判することも可能だろう。だが、逆に考えてみてほしい。ベーシック・インカムの普及やAIとロボットによる代理労働で人類が働かなくてもよくなった時代――名付けて「大休暇時代」が訪れたとき、人々の精神の支えとなってくれるものはなんなのだろうか? おそらく、宗教は科学によって完全に解体されていき、そこにはニヒリズムと快楽主義が蔓延するだろう。だが、人類はいつか、底なしの無為に快楽だけが反響し続けることに絶望する瞬間がやってくるはずだ。そんなとき、人々の信仰に足り得る――正確には、限りなく信仰に漸近できるのは――「偶然性」だけである。

 世界を見据えることは偶然性を見据えること。偶然性を見据えることは「無」を見据えること。「無」を見据えることは、道徳と神秘を見据えること。人類よ、無職になれ!