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生き延びるための精神分析学

白崎

 みなさん、精神、蝕まれてますか?

 抽象的な不安、自己嫌悪と嫉妬、虚無感に蹂躙されていますか?

 これらのメンタル・トラブルに煩わされて、精神科に行かれたニート諸君。元気にやっていますか? 元気なら、それに越したことはない。本当に良かった。だが、あなたたちのうち何パーセントかはもしかしたら、メンタル界隈産業のうろんさに絶望しているのではないだろうか。

 明日明後日では取れない予約、紋切り型の問診、インスタントに与えられる病名、自己啓発本のような認知行動療法、ジャブジャブと処方される向精神薬。結局のところ薬の力を用いて「イッパンジン」の模倣をさせられるというやるせなさ、経済活動の歯車たれという重圧。結局精神科医も「そちら側」の手先じゃないのか、と。そう考えることはないだろうか。

 失礼を承知で言わせてもらうと、あなたには、「社会全体が盲信している〈物語〉を丸呑み受容して生きていく」という才能に欠けているのかもしれない。「疑問を見い出し、自分の脳みそで答えを出したい」という欲求が、標準偏差から抜きん出てしまっているのかもしれない。個人的には、そういう人間のほうが付き合っていて楽しいのだが、さぞ生きづらかろう。

 そういう「偏屈な」人たちは、ごく一部の産業めいた精神科(そう、全体のごく一部だ、もちろん。ただ、良い精神科医を見つけられた人はとても運がいい)とは折り合いが悪いのではないだろうか。

 きっと現代の精神科は、「考えるヒマがあったら手っ取り早く不快感を除去し、一刻も早く快楽を享受したい」という現代人に適したシステムが踏襲されている。動画の倍速視聴やコスパ・タイパ徹底至上主義と同じ原理。もちろん、それでいいという人はそれでいい。だが、我々の両足は本来時速6㎞くらいののんびりした歩みで進み、我々の脳みそは雲や波を木々を眺めてぼんやりする時間が必要だったり、我々の身体は前に進んだつもりがぐるぐる同じ場所を回っていることもあり、この両手は時に不快感と手を取ってダンスしてみたりする。私たちは、一刀両断的データの解剖台にかけられてもなお、漸進的な混沌性から逃れることはできない。

 諸々のトラブルを抱え、藁にも縋るような気持ちで精神科医に行ってみたけど、拭いきれない違和感を覚えてしまう……というあなたの気持ちを、私は受容する。

 あなたたちが欲しかったものは、一時的に鬱状態を回復してくれる錠剤なんかではなく、「今、頭を抱えて煩悶している自分とは、この悩みの本質が晴れる方法とは何か」という問いに対する光だったのではないだろうか?

 さて、話は変わって、私は精神分析学が好きだ。ジークムント・フロイトが、河合隼雄が、ジャック・ラカンが好きだ。これらのテクストは、現代に蔓延るファストフード的・心理学とは一線を画すものだと思っている。たとえばMTBI診断とか、DSMとか、エゴグラムとか。私はああいう類型論には惹かれない。やや暴論と言わざるを得ないが、学問として、まったく別物であるとすら感じる。

 だから精神科・心療内科に対して、またはインスタントに消費されるアルファベット4文字たちに対して、心底絶望・軽蔑してしまったとしても、心理学や精神分析学のすべてをくだらない学問だと考えないでほしい。もしかしたら、偏屈なあなたたちの、思考の足しになるかもしれないから。

 本当はあなたたちに、これらを知ると生きやすくなりますよと誤謬を流布したい。だが、精神分析学には、行動経済学みたいにわかりやすいメゾットも、宗教のように信じるべき絶対的他者の定義も、哲学のように精緻な知性を実践していく工程もない。あなたの明日が生きやすくなるとは限らない。

 では、精神分析学がもつものは、定義とは一体何か。ざっくばらんに、強引に、2つ定義してみる。それは、「無意識領域への放浪」と「本当の自分なるものの放棄」だ。

 だから、「いま無意識領域が大暴走して、生活が大変なことになってんな〜」という人や、「本当の自分のことを知りたい」という思いが強すぎて悶着している人にとっては、もしかしたらいい示唆が得られるかもしれない。

 わずかでも心理学・精神分析学を学んだことのある者にとって、「どこからが治療すべき病気・症状で、どこまでが個性なのか」という問いは、一度は向き合うことになる課題であろう。

 これは持論なのだが、私は、「本人がそのことで過度に思い悩むようであれば、治療というフェーズに取り組んでみてもいいのではないか」と考えている。

 治療に係る処方薬には様々な種類がある。散々揶揄した口の根が乾かぬうちから恐縮だが、薬物療法や認知行動療法は実にラディカルで効果覿面な解決方法のひとつではある。宗教という救済もある。やはり仏教は母国語や土壌、習慣とマッチしていて、肌に合う人が多い印象だ。瞑想を始めとしたマインドフルネス療法も有意義だろう。

 私が今から語る「精神分析学」という処方薬は、極めてピーキーな火の車で走り抜ける、なんの変哲もない茨の道だ。

 まずはなにより、客観性に欠ける。「それってあなたの感想ですよね」と言われたら「はあ、まあそうですね」と言う他ない。ゆえにスカッと気持ちが良いものではない。わかりにくい。というか、「わかる」ことはない、一生。直面したくなかった醜さに向き合うはめになる。そうして、せっかく特定した苦しみの根源は、すぐに別のどこかへ転移していくので、完全な平穏が訪れることは、おそらく生きているうちにはありえない。

 精神分析学は、「欲望」「執着」をなくすことを目的としているわけではない。暴走しがちな無意識という領域を、少しばかり掬い上げて名前をつけて、自分にとって飲み込みやすい形に形成したり、ごほうびキャンディを与えやすくするために手懐けてみることしかできない。そして、それらを完全に掌握することは叶わず、台風や地震のように、無慈悲に、ランダムに、主体を襲う。

 精神分析学の「よさ」は、一種の性癖を持っている者にとって、「とにかく興奮してやばい」という部分、それのみだ。

 一緒にすこしやってみましょうか。この未熟な文章力と表現力でうまくできるかはわからないし、私は専門家ではなく唯の愛好家なので、もしかしたら全くあなたに響かないかもしれないが。

 先に断っておくが、見ないようにしているモノを見ないままにしておきたい人は、以下の文は読み飛ばした方がいいのかもしれない。あなたの具合が悪くなってしまっても、私は一切責任を取れないからだ。とても心苦しいことなのだが。

 私はこの紙面上に、あなたの目の前に立ち現れてくる〈他者〉としての私を顕するという試みをやってみますね。この試みがうまくいくためには、あなたの協力が必要不可欠だ。反論したりそれは違うぞ、なぜなら――と考えながら読み進めてみてください。

 さて、あなたは今苦しんでいる。多少なりとも。周りみたいにうまくやれないと思っている。だからこそ、ここに書かれた文章を読んでいる。

 あなたのその苦しみは、あなたが無意識下に秘めている抑圧された感情が、悪さを働いていると仮定してみる。何か、見ないようにしているものがありますね。ちょっと探してみてください。ありそうでしょうか? きっとあるはずです。

 認め難い性質のそれは、確かにあなたを形成する一部だ。その抑圧感情のことを、ここでは、「欲求」と呼んでみる。

 あなたは何に苦しんでいるのだろう。あなたはなにを欲求し、それが叶えられず、苦しさをリフレインさせているのだろう?

 「社会をうまくできない」という劣等感なのだろうか。あなたは「社会でうまくやりたい」という欲求を抱いている。その、「社会でうまくやる」という状態を自分の中に定義していて、それが今は達成できていないことが苦しい。

 「居場所がほしい」と思っている。あなたは「ここ」のことが嫌いだ。違和感を覚えている。本当の居場所がほしい。どうしてあなたは、「ここ」にいるあなたのことが嫌いなのだろう?

 自分の「正しさ」みたいなものを、間違っている世間に対して誇示したいのかもしれない。あなたは社会から手痛い仕打ちを受けてきた。つらかっただろう。それは、いったい具体的にどんなことをされたのだろう? こんな社会でうまくやるために自分を疲弊させるのは割に合わないと思っている。その通りだ。あなたは誰かから虐げられるために生まれてきたわけではない。

 あなたのその選択を、私は肯定する。さて、こんなところで無責任に肯定されて、どう思った? お前に何が分かるんだと思った? まったくもってその通りだ。私は、他者は、あなたのことを理解できない。

 「誰かが持っている力を、自分は持てていない」という嫉妬に駆られることはあるだろうか。私はしょっちゅうだ。あなたはその力をずっと羨望していた。なぜ? いつから、どうして、なにがキッカケで、あなたはその力を欲するのだ?

 なんでもいいから楽になりたい? 今、あなたは、苦しみの渦中にいる。さぞ苦しいだろう。もしかして、対して苦しくはないと言い聞かせている? 人生というのは、おおむね、生きているだけで苦しい。我慢しなくてもいい。苦しいときには苦しいと言っていい。私はあなたの力になることができず、とても悔しい。

 誰を恨んでいる? どういう属性の人が憎い? どういう人たちをダサいと思う? そういう人たちは、あなたに、なにか不名誉なものを押し付けたのだろうか? 一体その、「押し付けられたもの」の正体とはなんだ?

 あなたはきっと気づいている。あなたが本当に恨んでいるのは、あなたを傷つけた誰か――具体的な個人ではない。人々が傷つけあう世界のシステム、そこに〈意識〉しているあなた自身だ。違う?どういうふうに違った?

 うまい言葉にしなくてもいい。わかりにくい言葉で朴訥に語ってくれてもいい。パッと連想した単語でもいい。その単語の手触りを確かめてみてほしい。その単語の音韻的記号――シニフィアンが伝播する意味――シニフィエ――とは、あなたにとって、いったいなにを指し示している? あなたにとってそのものは、どういう意味を内包している?

 どうしてここを読んでいるの? 何がきっかけでこの本を手に取った? どういうことを知りたかった? なぜ?

 私はあなたのことを否定しない。あなたのことがもっと知りたい。あなたの考えたことを聞かせてほしい。それに対して、私が解釈を与えることを許してほしい。

 と、まあ、こんなところか。とにかく、大事なことは、今ここで、ニーマガの紙面上で私が何を言うか、ではない。この文章を読み、あなたが何を考え、仮に何かを私に伝えることができるのならば、どういう言葉を選択するのか、だ。

 一方的な語りかけになってしまってすまないと思う。

 だが、仮に私があなたの目の前にいたとしても、私からあなたに、何かを働きかけることはできない。私は、あなたの鏡だ。不完全ななりに鏡をやろうとする。いちおう、ここでもあなたの鏡になってみたつもりだ。この精神は、肉体は、全力で真摯に、ただあなたの姿を映したい。もしあなたがなにかに困っているのならば、この鏡をまじまじと眺め、〈自分〉らしいものを汲み取ってみるといい。

 決して難しいことではないのだ。あなたたちは、産まれ落ちて初めて鏡を見た瞬間に、言葉を覚えた瞬間に、「そうせざるを得ない」ように学習してしまっている。あなたたちの「本当の姿」は、あなたには自覚できない。「鏡写しの自分」を顕在する「他者という鏡」から、それらしきモノを汲み取ることしかできない。そういうことを自然にやっているのだ。

 あなたは鏡から〈自分〉らしいものを蒐集し、統合し、その寄せ集めを一旦〈自分〉と呼んでいる。あなたは残念ながら、一生本当の〈自分〉には辿り着けない。

 あなたが規定する〈自分〉とは、他者の片鱗の寄せ集めだ。今までに収集した鏡のかけらが、あなたの欲望や癖を形づくる。

 もちろん、あなたは〈自分〉を諦めきれない。私だってそうだ。〈自分〉を、苦しみの根源を、世の中の心理を、すべて判りたいと思っている。〈自分〉を、それらをひっくるめてすべてをわかった状態――私はその状態を〈円環〉と呼ぶ。

 私たちは日頃、完全な円ではない。ランドルト環のようにどこかしらが空いている。私たちは、欠けていることで生きていける。欠けていることで欲望する。〈円環〉とは、アレが全て閉じてしまった状態のことだ。おそらく、人はそれを「発狂」ないし「死」と呼称している。または、「悟り」ともいえるかもしれない。

 残念ながら、あなたは〈自分〉のことを、気が狂ったときか死んだ時にしか完全に理解することはできない。その苦しみからは永遠に解放されない。一旦解決したかのように思った欲求は、また別の穴からひょっこりと顔を出し、あなたを苦しめることになる。

 だったら、どうするのか。残念ながら、どうすることもできない。ただ、欠けているなと思う。欲求が一時的に満たされても、満月のように翌る日には欠けている。欲求が満たされていたということは、事後承諾のかたちでしか現れない。私たちは無意識の――欲求のしもべだ。だが、ニヒリズムに陥る必要はない。

 なぜか。それは、滅法興奮するからだ、こういうことを考えていると。欲求が転移していくと。他者という鏡像の中に、今まで見出せなかった「自分らしきもの」を見つけると。社会の中で、自分が「他者らしきもの」になっていると。自分と他者の間に、言葉を介した亜空間が生成され、そのイキモノが鼓動を始めると。とても興奮する。しませんか?

 さて、紙面の果てが見えてきた。もし興味を惹かれたならば、それは精神分析学の世界へようこそだ。こんな不完全な偽カウンセリングなんかではなく、ぜひ精神分析学の入門書なんかに触れてみてほしい。

◯生き延びるためのラカン、斎藤環(2006)、バジリコ
「何を言いたいのかよく分からない」でお馴染みのラカンを、中高生でもわかるような易しい文章で解説した入門書。読みおわると分からないことが増えていて、興奮する。

◯続ものぐさ精神分析、岸田秀(1982)、中公文庫
「ほんとかよ」と言いたくなるくらいキャッチーな考察でまとめられた、フロイト派の著者による、カジュアルに読めるエッセイ集。目次を眺めて気になるトピックだけつまみ食いするのもおすすめだ。

◯こころの処方箋、河合隼雄(1998)、新潮文庫
日本における臨床心理学の大権威、河合隼雄が書いた優しい本。優しい言葉しか書いていないので、調子が悪いと「いいことばっか言ってんじゃないよ」とむかついてくるが、そういう言葉たちは概ね正しいと後から気づく。

◯死者と他者:ラカンによるレヴィナス、内田樹(2004)、海鳥社
ポスト構造主義者のレヴィナスに関する分析がメインで、やや精神分析学からは外れるかもしれないが面白い。何を言っているのかわからないが、この人は何かが私に言いたいらしい――と思わせる漸進的な文章は、身体にいいです。