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なぜ「それ」を阿弥陀如来と呼ぶのか

安眠計画

南無阿彌陀佛

 どうも、教譽和光 a.k.a. 安眠計画です。

 罪深くも善光寺一光三尊阿弥陀如来が遺棄された大阪で産まれ、絶えず西に向かって淀川が流れ続けるこの水の都で、恥の多い半生を過ごしてきました。

 宗旨は浄土宗鎮西義白旗派、ありがたくも釈尊から数えて二千六百年以上続く法灯をいただき、畏れ多くも円光大師法然上人の末代のお手つぎによって、譽号まで賜った末法の仏弟子です。

 しかし前世の宿業か、はたまた大阪という土地に積層する因縁の果報なのか、正しい教えにたどり着くまでずいぶんと時間がかかってしまった気がする。今でこそそのすべての回り道に、隘路に、絶望に意味はあったとも思えるが、この記事では「なぜ創価学会三世である自分が、日蓮聖人の教えを『捨閉閣抛』して浄土門に入ることとなったのか?」「葬式仏教などと揶揄されて久しい伝統仏教に救いはあるのか?」「生きる意味とは? いや、そもそも『生きる』とは?」といったトピックを、これまで自分(とされる現象の総体)が遇ってきた多くの仏縁を思い返しつつ、考えていきたい。

 そもそも――俺はこの「そもそも」という接続詞を好んで多用する――なぜ絶対的な救済をヤハウェでもアッラーでもなく、あるいは「ハイアーセルフ」や天照大神でもなく、阿弥陀如来と呼ぶのか? それは俺(とされる諸現象)にとって必然だったが、文脈を共有しないあなたにしてみれば、まったく意味不明だろう。ゆえに「念佛をしないやつは、ばかだ」などと宣うつもりもない。仏教はよく効く薬のようなものなので、今現在苦しんでいない人、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)が貪りや怒り、愚かさに毒されていない清らかな人には不要なのかもしれない。

 ただし俺(という現象)はこの三十余年の間、世界でもそこそこの人口密集地で暮らしてきたが、未だ一人として仏教という妙薬が不要な全きしらふの人間に、残念ながら遇ったことがない。全員重篤な病に侵された患者か、あるいは病識のない「自然派ママさん」のように観える。

 たとえばネットの海を回遊していると、「感情のゴミ箱」という表現でやるせなさを言葉にしている人を見かける。概ね「家族や友達、同僚といった近しい人から愚痴を言われ、マイナスな感情の捌け口にされている、わたしをゴミ箱のように扱うのはやめてほしい」というふうなニュアンスだろう。俺(現象)も含めてすべての人間が、互いの御しがたい感情によって他者に近づき、傷つけ合う。相手に執着し、依存して、人格を持った他者を刹那的な感情で「機能」に変えてしまう。それがプラスであろうとマイナスであろうと、他者に情動を向けることがそもそも間違っている気がしてならない。もしも他者に振り向けてもいい感情があるとするなら、それは心からのリスペクトと、慈愛ではないだろうか。

 大乗仏教には「目の前のほかでもないあなたを尊重する」という態度の訓練という側面があると確信している。感情が暴走して他者を「機能」にしてしまいそうなとき、如来の哀愍の眼差しが俺(と誤解している認知機能)を捉え、それと同時に放逸していた意識は如来の光り輝く尊顔を目の当たりにする。

 ここにひとりの凡夫が旅した信仰の遍歴を追体験してもらうことで、この絶対的な慈悲と智慧の物語を共有したいと思う。あなたの人生に積み上がる苦痛を、ほんの芥子粒ひとつ分ほどでも、十万億土の彼方にある極楽浄土へワープさせることができれば、それは望外の喜びである。

 願わくば本稿の功徳が一切衆生に施されんことを。菩提心を発した者すべてに、極楽への往生があらんことを。

第一門.厭離穢土欣求浄土

 生きることは苦しい。

 たとえば生きることを全肯定できたとして、それを手放すとき、そんな素晴らしいものが完全に失われてしまうこととどう折り合いがつけられるだろうか? 人は生きること、死ぬこと、その間に病や老いがあること、仮にそれらを克服できたとしても、いずれ完全にすべてが終わってしまうことの苦しさから、永遠に目を背け続けることはできない。先ほどまで味わっていた「世界の美しさ」は、ふとした瞬間に単なる幻覚であったと醒めることだろう。

 一切はただ過ぎていく。無常だけが平等で、「このわたし」と感じている意識すら決してわたし自身などではなく、世界は「わたし」と関係なく、あるいは「わたし」とされる現象を巻き込んだまま、ただ因果関係に基づいて粛々と回転し続けるに過ぎない。

 人は生まれたときから、常に己の「渇き」を埋めるためだけに、先述したこの世界の回転、無限の輪廻のあいだを彷徨うばかりだ。俺(とされる現象)の場合は、生まれたときから創価学会員になることが半ば確定していたように思う。

 父方の祖父は瀬戸内海の因島重井村を出て、大阪市内の商店街で牛乳屋を開業した。そして俺(とされる現象)が幼いころに祖父は死に、因島から先祖代々帰依していた伝統的な曹洞宗の法儀でもって荼毘に付した。

 このように父方の宗派は曹洞宗だったが、ほかの多くの一般的な檀家のみなさん(とされている現象)と同じく、道元禅師の教えなど、一度たりとも家族から聞いたことはない。本格的な座禅も個人的に福井県の大本山永平寺に伺うまで教わることがなかったし、信仰に強い興味や関心、大乗仏教で重要視される「発菩提心」がたまたま備わってなければ、何も知らぬままのうのうと生きて、死後、曹洞宗のお坊さんに戒名を付けられ、形式上は冥途で仏弟子となっていたことだろう。

 『人はなぜ宗教を必要とするのか』や『日本人はなぜ無宗教なのか』(どちらもちくま新書)などの著書で有名な宗教学者で浄家の阿満利麿氏は、「無宗教」という言葉を、二つのレベルのちがった歴史をたずねることで明らかにしようとした。一つは明治以来の近代史であり、もう一つは、もっと長期にわたって持続されてきた、いわば民族的心性にかかわる深層の歴史である。この後者の「民族的心性にかかわる深層の歴史」がわが家にまったくなかったとは言えない。つまり曹洞宗の教えを相続しながら、それを意識的に顧みることはなかったものの、お盆や葬式といった習俗に確かに仏教が関わっていたことこそ家伝であり、家族が仲良く安心して暮らしてきたことが不立文字の生活禅なのだ、と解釈することも可能だろう。尊い教えは水や空気のように当たり前のものとしてただ在り、お盆や親族の死といったイベントの際にのみ立ち顕れる。

 しかしそのような在り方は、若く実存に苦しむ安眠計画を満足させなかった。釈尊の教えは、そんな世俗をそのまままるっきり肯定してしまうような、既得権益層に都合のいい現状追認のロジックなどではなかったはずだ。王や貴族たちが怯え、拒絶し、今の暮らしに満足しきっている肥えた豚どもの心胆を寒からしむ衝撃と超越を齎した教えであったはずだ。真理とは、勝義諦とは、決して世俗の生活に惑溺して、実存的な、根源的な苦しみに蓋をしてしまえるようなものではなかったと霊感している。むしろ積極的に苦しみを、病を、罪悪や無明を見つめて、その向こう側にある悟りの風光、彼岸を指向していたはずだ。

 さて、もはや自分の中でほとんど「死後」のものとなってしまった父方の信仰をリジェクトした安眠計画に残された法脈は、母方が帰依する新宗教、創価学会の教えであった。母方の祖父は信心強盛な法華行者で、創価学会が最も激烈な信者獲得キャンペーンを実施していたころ、池田大作氏指揮によるいわゆる「折伏大行進」の折に帰依した、比較的旧い信者だ。その物証として、まだ日蓮正宗総本山大石寺から破門される前の昭和四十三年版(改訂三十二版)『折伏教典』が家に遺っている。『教典』の最後の遊び紙(白紙の余白ページ)には祖父の字で「勇気 信心即生活 人生は勝負」と書いてあった。それが彼の見つけた真理であり、南無妙法蓮華経だったのだろう。これは今や与党と連立政権を組む本朝有数の巨大教団となった創価学会が、青年の心を忘れていなかった草創期の精神であり、世界でも指折りの宗教的カリスマであった池田大作氏全盛期の教えに忠実な「気づき」だと思う。

 母親はそんな実父(=俺にとっての祖父)の願いと教えを一身に受けて「信子」と名づけられたその名の通り、真っ直ぐなビリーバーに育った。母はいわゆる「エンパス」気質で、わが母ながら頭はそんなに良いとは思えないが、不思議な、霊的な直感に優れたひとだ。

 父親の周到な不貞行為を暴き、深夜、当時小学生だった安眠計画を叩き起こして浮気相手の女性の家まで子連れで突撃する鬼女の如き烈しさがあるかと思えば、神社や教会といった「謗法」の神域に立ち入ると、昔から具合が悪くなる霊的な繊細さを持ち合わせていた。

 幼少期の安眠計画が淀川の河川敷でこぶし大のきれいな石を拾ってきたとき、「河原の石には水難に遭った死者の霊、残留思念のようなものがこびりついている」と云って捨てさせたりした。謗法や魔に対する潔癖なまでの忌避感。まさに富士門流の御本尊から飛び出してきた鬼子母神そのもののような母だと思う。

 母は「どんなに苦しくとも題目さえ上げていれば、後になって御本尊に護られていたことが分かる」「安眠計画は賢いけど、IQだけが高い子じゃなくて、EQ(心の知能指数)の高い子に育ってほしい」とよく云って聞かせてくれた。俺は父も母も七歳離れた弟も、本音を言えばみな愛して(しまって)いるが、分かりやすくあえて現代家庭にありがちな紋切り型に落とし込むと、無関心な父親(=菩提寺の曹洞宗)と過干渉な母親(=創価学会)の両方を無視して、浄土門に入ることを選択した、万年反抗期のガキのようなものなのかもしれない。

 しかし出家とは、仏教とはほんらいそういうものではないだろうか。すべてのものはいつか完全に終わるのだから、無限の捨の果てにしか、聖なるものは立ち顕れない。中国仏教は儒教を取り込み、そのコア的教義である「孝行」の教えを内包したまま日本に輸入したが、ほんらいの仏教とはもっと「親不孝」なものではなかったか?

 さて話を日蓮教学に戻す。

 多くの日蓮主義者に聖典と仰がれる御書(日蓮の遺筆と伝わるテキスト群)の『四条金吾殿御返事』に「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり」とあるように、仏法とは、真理とは詮ずるところ「勝ち負け」なのだ。日蓮聖人は「念仏無間」などと云って法然上人を口撃しているようでいて、法然上人が取りこぼした人々のニーズに応えるかたちで真理を顕している。つまり日蓮の解釈で言えば、真理は虚偽・誤謬に先んじており、色身の釈尊在世当時、強固なカースト制度によってバラモンたちに支配・独占されていた「救済」を、一切衆生に向けて開放した絶対平等の教えこそが仏教であり、バラモン教との勝負に打って出た勇気の人こそ釈尊だったのだ。そしてその釈尊ご自身が、滅後二千年を六百年も過ぎたこの末法濁悪の泥の中にあっても勝利を、栄光を、平和を齎さんと立正安国の法を久遠実成し、無明に覆われたわれわれをなんとか仏道に戻そうと念われていることが法華経如来寿量品第十六に明かされている。この娑婆世界こそ、釈迦如来によって祝福された妙法そのものであり、寂光土だったのだ、と。当時のピュアな安眠計画はこの教えに「なるほど」と膝を打ち、救われるような思いだった。

 生きることは苦しい。特に俺(現象)の人生は、大切にしていたものを奪われたり、破壊されたりといった経験に満たされていて、無常を嚙み締める機会に恵まれていたように思う。紙面の都合もあるので具体的なエピソードはここでは割愛するが、譬えるなら強い風が雲を速疾に吹き流していくように、あらゆる認識対象は形を変え、どこかへと消えていった。しかし無限の寿命を持つ法身の釈尊が、われわれに知覚できないだけで、常に慈悲の眼差しを向けられていると思えば、仏道とは生活そのものになり、祖父や池田大作氏が到達した「信心即生活」の境涯が開顕されることだろう。これこそ父方の菩提寺にはない「生きた」仏教かもしれない。本当に素晴らしいことだと思う。しかし自分(とされる一現象)にとっては「それを全世界に広宣流布していこう」とか、「その教えに帰依しなければ必ず国が亡ぶ」だとか云う人には、正直付いていけないというのが本音だった。

 たしかに歴史が示す通り、仏教国であるはずの本朝は、真の信仰者をたびたび弾圧や法難に遭わせる。安眠計画が高校生のころから愛読している高橋和巳の『邪宗門』は大本弾圧事件をモデルにしているし、法然上人も日蓮聖人も、親鸞聖人も長崎の数多のキリスト者たちも、世俗権力に迎合することを是としなかった先達たちはみな大弾圧を受けている。さらに世界に目を向けてみれば、ナザレのイエスやガンディーのように、本朝だけではなく、古今東西の真なる宗教者は過酷な試練を必ず受ける宿命にあるようだ。

 今や世界宗教となった創価学会も、それらの先例に漏れず、小さな島国が掲げた国家神道・神仏分離・廃仏毀釈の大弾圧に対するプロテストを精神的支柱のひとつとしている。戦時中、思想統制を図る軍部権力に検挙・逮捕された創価学会二代会長・戸田城聖氏が、獄中での勤行に「牛乳瓶の蓋で拵えた数珠」を用いたエピソードは、今でも学会員の間で伝説のように語られている。このような末法の悪世では、最も弱く愚かで罪深い、小さき者たちが真理に向かう祈りの場を確保するために、ときに世俗権力の闘争の場である政治に打って出る必要もあるかもしれない。いやそれだけではない。きっと日蓮聖人が「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か」と『立正安国論』を提出して、ときの為政者を戒めたのは、わが身の保身と昇進のことばかりを考え、衆生済度という仏教の本義を蔑ろにした小さな宗教者を糾弾しなければならなかったからだろう。

 人間のあるべき姿を民に広く示すべき宗教者が 囻 (国の異字体:日蓮聖人はその遺筆の多くでクニガマエに民と書いた)のことを忘れていては、当然国は亡ぶ。ましてや現代本朝は「お題目」の上では国民主権の「 囻 」である。主権者たる国民一人ひとりが国政で勝負しなければ、封建制が敷かれていた鎌倉時代なんかよりも、もっと速やかに国が亡ぶことは自明の理だろう。いやはやなんと素晴らしい、不惜身命の誓願を立てて帰依するに相応しい教えだろうか。

 だが俺は、その教えを、信心即生活を実践していくために、読まれているのか分からない新聞を雨の日も風の日も無償で配達し、「財務」と呼ばれる布施の額を競い、選挙の期間になれば友人知人に電話をかけ、選挙戦の打ち上げに入店した居酒屋でも店員に公明党の議員の名刺やチラシを配るようなことは、到底やってられない。素晴らしい教えも、この自分(とされる現象)が継続して実践できなければ意味がない。

 いくら信心即生活であり、選挙活動は仏法だと再定義されても、魂(と呼ぶしかない部分)が拒否している。現代の創価学会は、その教義はともかくとして、実践面での宗教性を蔑ろにし過ぎている。而して真理は実践されなければならない。

 これは確信していることだが、信には行が伴わなければならない。法華経に説かれる不惜身命 × 信心即生活は、「迎合的平和主義」へと頽落し硬直した創価学会を延命させるために、凡夫を過剰にエンパワメントし、死ぬまで働かせる危険な方程式に今やすり替わっているように見える。生前「地涌の菩薩」となって唱題に明け暮れた亡き祖父は、きっといまでもこの(彼にとって)愛すべき輪廻に留まり、一閻浮提のどこかで法華経を獅子吼しているだろうと霊感する。

 とはいえ凡夫が生涯をかけて実践していくことが難しいだけで、法華経は素晴らしい教えであることに変わりない。法華経はあまりにも正しい。罪悪生死の凡夫には実践が困難なだけだ。

 そしてその経力をワンフレーズで訴え、理の一念三千ではなく「事の一念三千」を完成させた日蓮聖人は、本朝が誇る偉大な沙門のひとりなのかもしれない。誰も「受持」できなかった法華経を、万民に開いたその功徳は計り知れないだろう。

 大聖人が「一閻浮提」という世界観にいたことは、単なる世界の肯定・追認ではない。それはあたかもカアバ神殿にあった三百六十体の神像を自らの手で破壊し、多神教を唯一のアッラーへの服従にまとめ上げたムハンマドのように、迷妄を力強く破折あるいは摂受することで、個々人の世界・個々人の正義を捨象し、「世界」あるいは「現実」を統合するものだ。

 安眠計画は長年このパラレルな宇宙、即ち多神教的世界観の中で暮らしていた。唯識なのだから、人の数だけ世界(現実)があることは法に適っており、それぞれがそれぞれの信ずべき神様を大切にして、ヨソの神様にとやかく言うことはマナー違反だろうと。しかし大聖人はこの宇宙はひとつだと、わたしとあなたの世界は断絶していないと仰る。冷たい個人主義(小乗)ではなく、中庸な大乗でもない、熱い一仏乗を説いたのだ。まさに天台大師智顗や伝教大師最澄の教えを正統継承・発展させた、円満頓速の「聖道門」そのものだと思う。それは個人が誠心に日蓮教学を、即ち法華経を基準にすることによってのみ、自らの生存に必要な価値を創造し、実現していく原理が広宣流布それ自体によって規定されている。これは法華経の中で法華経が唱えられているように、無限の入れ子状の構造の中に自らが入っていく、我入入我の実践にほかならない。

 そしてその教えの純粋性を、多神教的な摂受と、「事」から「理」の一念三千への逆戻りから護り抜いた日興上人の法流、さらには「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」(「経王殿御返事」)と著された十界曼荼羅を、御形木御本尊という形で印刷し日本八百二十七万世帯、海外二百八十万人に配布・護持してきた創価学会は、聖道門の実践集団であった。これは皮肉ではなく素晴らしいと思うが、現世に地涌の菩薩がこんなにもたくさんいらっしゃるのに、なぜ「現世のわたし」はかくもこれほどまでに苦しく、世界は悪に満ちているのか。

 大聖人は「法華経を信ずる人は、さいわいを万里の外よりあつむべし」「さいわいは心よりいでて我をかざる」と著された。この三毒で汚れた心こそが我(と認識する現象)を苦しめているのに。

 また「御みやづかいを法華経とおぼしめせ」とも仰った。こんなくだらないブルシット・ジョブが法華経なのか? 資本家やステークホルダー、わがままで注文の多い客のための「物語」のモブとして、定年までせかせか働いていくことが、法華経の実践なのか?

 どんなに素晴らしい教えも、実践できなければ意味がない。「事の一念三千」をひらかれたことは素晴らしい。しかしそれは祖父や母の時代、総本山大石寺に開顕した「本門の戒壇」たるあの鶴が羽ばたくような白く美しい正本堂が解体されたとき、「事」は単なる理へと戻ってしまったと俺は思う。今や学会員は一大秘法である弘安二年の大御本尊との霊的つながりを喪失し、五座三座の勤行という祈りの型を崩している。三大秘宝はもはや永遠に「理」の中に閉じ込められ、観念論として未来永劫ショーケースに飾られたままだろう。

第二門.捨此往彼蓮華化生

 では世界でもっとも成功した信仰のひとつであるキリスト教はどうか。二十世紀最大の新約聖書学者であるルドルフ・カール・ブルトマン氏は聖書の〈非神話化〉の必要性を説いた。彼の実存論的解釈の手法は聖書学のみならず、われら仏教界にまで波及している。氏によると原始キリスト教が実践されていた教会の先祖、いわゆる「生活の座」では血と汗の臭いたつような史的イエスなどはじめから存在せず、その力点は信仰と祭儀にあったそうである。

 つまり新約聖書の本来の性格は「ナザレのイエス」という個人の歴史的情報の保存にはなく、むしろイエスをキリストとして伝える宣教=ケリュグマ(希:κήρυγμα)にあるらしい。なるほど、はじめからノン・クリスチャンに向けた福音伝道(羅: Evangelium)こそがキリスト教の真理であったならば〝白人〟でも〝黒人〟のものでもない(ように感じられる)この粟散辺土の極東の、「殉教者の聖地」たる島国においても、その救済は正しく動作することだろう。なぜならケリュグマとは単なる人為的な努力ではなく、そこに必ず聖霊の御働きがあることになるからだ。

 なんだ、なにも父母の法脈から信仰を見つけ出さなくとも、唯一絶対の神の前にはすべての被造物は平等に無価値で、キリストの御名によってのみ赦されているではないか。これもひとつの真理かもしれない。なにせ〈世界〉は人の数ほどある。〈世界a〉では唯一絶対の造物主が君臨していても、なにもおかしくはない。

 その論理に破綻はなく、遍く宇宙を満たす真理たり得る強度がある。「資本主義リアリズム」を頭から信じ切った商品のひとつとして〈世界b〉に生きるくらいなら、キリストの云う神のもとに召されて終わる(終わらない)方が、よほどうれしい。プロテスタントやカトリックの伝統的な教会を訪れるのも、異国の習俗を見ているようで社会見学的な面白さがある。

 また教会へ行かずとも、分厚い本を開けば、西洋の神学は深遠な哲学をその婢とするほどに磨き抜かれ、逆説的に人智の結晶のように輝いている。何よりも神の言葉が『聖書』として日本語でまとめられていることは、学ぶことと教わることが大好きな現象(安眠計画)にとってみれば、宝の山の如く映る。

 しかしひねくれた俺(とされる現象)はこうも思う。旧約のころより優しくなっているとはいえ、新約の、イエスの云う神様だって、また再び人を裁くのではないか? と。これはクリスチャンにしてみれば、とても初歩的な躓きかもしれない。しかし俺(とされる現象)のような罪深い、どうしようもない大型の猿が、古代アラブ人や、中世の白人が視た美しい幻覚に酔うことは到底できないのではないか。

 これはクリスチャン一人ひとりに問いたいが、ほんとうにあなたは「神の似姿」だろうか? 死後裁かれず唯一絶対の造物主のもとに引き上げられ、天界で永遠の信仰生活を送れるだろうか? いや、俺(現象)もLSDアナログ、いわゆる合法紙のセッションで宇宙に浮かぶ人のかたちをした光を視たことがある。〈向こう側〉にいらっしゃる御方が、畏れ多くもヒトに似たように見える姿をしているという点では、私感としても疑いようがない。光はヒトのかたちをしている。

 ただしその体験は、般若心経を何度も何度も諳んじていたときのトリップだったし、そもそも天界に引き上げられた古今東西すべての真のキリスト者たちのうち誰かが、再び「原罪」につながるような大罪を犯さないでおられるだろうか?

 ここに教譽和光の名において宣言する。GODも所詮は天人五衰の有限の存在だ。いかに強大な神であろうと、天部は決して如来を超えることはできない。造物主がこの世界を再構成するとき、ごく一部の聖者の霊は、たしかに神の国へと引き上げられるだろう。それは聖書において間違いなく約束されている。しかし永い永い天界での暮らしの中で、必ず一定数は再び堕天する。天使たちの中で最も美しい大天使がそうであったように。

 「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。」

 旧約聖書『イザヤ書』

 そうして聖なるものと俗世とは再度断絶し、新世界も、その次の新々世界も神によって永遠に裁かれ続ける。輪廻が終わることはない。われわれは造物主の玩具のように天地に渡って踊り狂うしかないのだろうか? 永遠の安息などあり得ないのだろうか?

 否、ある。

 「だが家の作り手よ、汝の正体は見られてしまった。汝はもう二度と家を作ることはできない。その垂木はすべて折れ、棟木は崩れた。心はもはや消滅転変することなく、渇愛は滅尽した。」

『法句経(巴:Dhammapada)』

 正邪を賭けた終わることのない霊的戦場のただなかで、常に勝つ側に付き続けることを「信仰」と呼ぶなら、それは「資本主義リアリズムよりはマシ」くらいのものではないか。

 俺たちには仏教がある。

第三門.応法妙服自然在身

 ありえたかもしれない〈世界a〉も〈世界b〉も、完全に滅尽した。とはいえ俺(とされる現象)は未だこの娑婆世界、つまり此岸にいる。この穢土から西方の彼岸、太陽を隠すほどの極光を放つ極楽浄土を眺めると、北側即ち教譽和光から見て右半分は凍てつくような冷たさの大水が荒れ狂っている。これは貪りや執着の心が顕れたもので、この大欲の水河の中を見事泳ぎ切ってみようとしたものは、みな流されてしまった。

 では南側(教譽和光から見て左半分)はどうだろう。こちらルートであれば彼岸にたどり着けるかもしれない。

 いや、南側ルートは、どこまでも赫赫と燃え盛る大火がすべてを焼き尽くしている。これは瞋恚、即ち怒りや憎しみの心象風景そのものであり、涅槃(梵:निर्वाण)に至らなければ永遠に吹き消すことはできないだろう。河の幅はそれぞれ百歩ほど(約五十~六十メートル)だが、深くて底はなく、また南北に辺はない。

 そんな! 紫雲たなびく向こう岸へ渡るためには、向こう岸に渡らなければならないなんて! ……意味が分からない、まるで臨済宗の禅問答のようだ。服を買いに行く服が無い!

 困り果て、もはや此岸で、少しでも大水と大火のふたつの河から離れようと東に進むと、武装した盗賊や、獰猛な毒蛇、人喰い鷲、狡知に長けた日本狼の群れ、数えきれないほどの毒蟲が蠢いているではないか! 武装盗賊はこちらににじり寄り、胡散臭い笑顔をつくりながら云う、「あなたは資本だ」と。

 「資本であるあなたは、あなた自身の『価値』を高めつつ、死ぬまでこのグローバル資本のサプライチェーンの一部として勤労に励み、蓄財し、投資し、資本即ちあなた自身をさらに増やしなさい。それが神も仏もいない、この現代における成功のヒケツです!」と。

 それを聞くや否や、地面から無数の毒蛇が涌き出てこちらにやってきた。大きな牙から白っぽい毒液を噴射しながら叫ぶ。「この盗賊どもの云うことはまったくのデタラメだ! 仏はこの世界に確かに存在する! 娑婆即寂光、資本など持たずともこの世界はそのまま浄土だ! 釈尊が生まれたこの愛すべき世界で、地涌の菩薩として諸仏を讃嘆しながら、無限に輪廻し続けることこそが、お前の生まれた意味なのだ! ちなみに、次の選挙はどこに投票するかもう決まってる?」

 それらを遥か天上から眺めていた人喰い鷲が、恐ろしいスピードで舞い降りて、美しい声で天上の父を讃美するように歌う。「このわたしを視なさい。美しい両翼、鋭い嘴、純白の尾羽、これは罪深いわれらを贖う十字架を象っています。わたしなどよりも遥かに高いところにいらっしゃる神様も、同じように十字のカタチをしているのです。愚かな黄色人種よ! この美しき純白の十字架の御前にひれ伏し、讃美するがいい! ハレルヤ!」

 狡知に長けた日本狼の群れは地中から天上から喧しく響くこれらの声をかき消すほどの大音量で吠える。「貴様ら、黙って聞いていればテキトウなことばかり抜かしおって! 大丈夫、もう安心しなさい。私の群れに加わればもうほかに何ひとつお前に求めることはない。私の群れはほかの獣どもの群れよりも何百年も歴史があり、さらには美しい四季がある。水はそこらじゅうに湧いていて、食事もおいしいし、シュウキョウ? とかなんとかいう変な風習も最低限しかない。いやなに、私の群れは昔シュウキョウでやらかしてしまってな、そういうのはもう今はやってないのだ。あれは大昔の科学知識を民衆に分かりやすく説くためのホウベンで、たとえば砂漠の狼の群れは今でも豚が食べれないんだと。豚なんか衛生管理が発達した現代なら、食べても何ともないのに、愚かな群れだ。あんなおいしいものを食べられないなんてもったいないと思って、このあいだ砂漠出身の狼に豚カツを喰わせてやったら、大喜びしていたよ(笑) ああそれに、食べ物だけじゃないぞ。大昔、白頭鷲の軍団が卑怯な爆弾を二発も落としてきたせいで敗けてしまったが、それをバネにして今は経済も科学技術も、『世界群れランキング』でトップクラスだ! 次の戦いには絶対に勝つから、お前も群れに加わるといい。あ、その前にお前も純血の日本狼だよな?」

 数えきれないほどの毒蟲はブンブン……と羽音を立て、黒い雲のような塊になってこちらに迫る。ブンブン……ジブンジブン……ジココウテイカン、ジココウテイカン……ジブンノキゲンハ、ジブンデトル……ジブンジブン……。

 轟音でおかしくなりかけながら、なんとか耳を澄ませてみても、意味不明な羽音を撒き散らして毒蟲どもは、南側の大火に向かって飛び込んでいく……。

 騒音、騒音、騒音。

 もう何が正しいのかまるで分からない。静かな場所で独り、いやたまに気の合う仲間数人と、ラクにやりたい。自分(現象)に最もフィットする地獄を選ぶしかないのか……と、一番マシな武装強盗の集団に入るため、リクルートなんとかとかいう人攫いに声をかけようとしたそのとき、東の岸から、妙音が聴こえた。

 「その白い道を渡れ」

 西の方角、青い波濤と真っ赤な大火とのちょうど境目を視やると、此岸から彼岸に伸びる細い道、自分(現象)の手のひらくらいの幅の、細く長く白い道があった。

 「安心せよ。我に任せ」

 白い道の先、西側の岸には「無限の光」と「永遠」のふたつ名を持つ智慧の完成者、阿弥陀如来がこちらに向かっておいでおいでと手招いている。此岸の釈尊はすべての雑音を塗りつぶすように、再び発遣する。

 「さァ、早く決定して行けッ! よくよく観よ、こちら側にあるものはみな、死だ」

 ああ、罠だろうか。火か水か、俺(現象)が一体どちらに転ぶか、ふたりで賭けたりしているのだろうか。わざわざあんな細い道を、しかも右側に波しぶきを、左側に火の粉を浴びてまで渡るなんて、しんどい。

 こちら側で、おとなしく盗賊の仲間にでも加わった方が安全なように見える。いや、でも……。

 釈尊が仰る通り、ここは往くも還るも止まるも死を免れえない、三定死ではないか。

 気がつくと、すべての雑音を振り払い、西に向かって此岸を一目散に走り抜けていた。なむあみだぶ、なむあみだぶ……。念佛をお称えしていると、思っていたより早く二河のほとりまで着く。後ろでは盗賊や獣たちが危険だ落ちるぞと喚き散らしている。自分(現象)を奮い立たせて、おそるおそる、白い道に半歩足をかけてみる。ええい、南無阿彌陀佛! 両足を乗せる。前を向き、歩み出す。

 前方の西方極楽浄土にいらっしゃる阿弥陀如来は「おお、えらいえらい。もう大丈夫や。その道まで来たら、追いかけてきよる盗賊も狼もみないっしょになれる。後ろは振り返らんでよろしい。ただ我だけを見つめよ、渡り終えるまで護ったる」と慈悲深くも御声を、すべての雑音に勝る招喚の妙音を響かせる。

 「……あみださま」

 「なんや」

 「お酒は、もう飲んではいけないのでしょうか。俺という現象は、全きしらふでは、とても生きていけないんです」

 「まあ、両側の河に落ちへん程度やったらええよ」

 「あと、此岸に大好きな女の子がいるんです。でもその子はずっと此岸に住みたいらしいんです」

 「ほなきみがこっちに先に来て、修行して、成仏してからその子のところに往ってあげなさい。きみが渡り畢っても、真ん中の道は残しておくし」

 行けの声と来いの声を信じて一心に白道を歩くと「まあ、なんでもほどほどがええよ」と光る御方がいた。

 相変わらず右側からは波濤が常に道に打ち寄せている。この俺という現象は、貪り尽くすことがない貪りの心がおこって、信心を汚そうとしている。また同様に、左側からは炎が常に道を焼く。この穢土という現象のすべて、生老病死すべてに対する怒りの心が、誠の信心という功徳の宝を焼こうとする。

 『観無量寿経』には念佛者を「これ人中の分陀利華=白い蓮華なり」と喩えられており、これを享けて善導大師は『観経疏』の中で「もし念佛する者は、これ人中の好人、人中の妙好人、人中の上上人、人中の希有人、人中の最勝人なり」と仰せだ。上町台地の、かつて日相観の聖地であった岸辺に建つお寺さんは、伝統的な檀家でもないこの俺(という現象)を白い蓮の花だと、最勝人であると規定してくださった。

閉門.諸上善人倶会一処

 最後に、これは〈観念の念〉、つまり法然上人の仰った「滅後の邪義」でしかないけれど、称名念佛をいま流行りのヴィパッサナー瞑想の技術的側面から考えてみたい。

 まず念佛という一定のリズムを刻む発声、それに伴う呼吸瞑想のステップが進むと現れる喜悦が念佛を「している」という意識を後退させる。さらに喜悦が深まると心的エネルギーが不要な不退転の境地である楽が顕れる。法然上人の直弟子、つまり教譽和光にとって大大大叔父弟子にあたる親鸞聖人は、これを極楽の確信として「現生正定聚」と云った。聖なるものを確かにグリップしていないと絶対に出てこない表現やと思う。

 ただ個人的には今の真宗はもはや『新約聖書』の批判的研究者の言葉を真に受け教義の〈非神話化〉に躍起になって、法然上人の、恵心僧都の、善導大師の道綽襌師の、曇鸞大師の天親菩薩の龍樹菩薩の、釈尊のお称えしたお念佛を、素朴にそのままいただけていないように思う。

 お西もお東も真宗さんは親鸞さんの聖廟とそれを護持する親鸞さんの一族(「京都行ったら白足袋族には逆らうな~」などとよく言われる)の集まりになってしまっていて、どうもあれは仏教風味の亜神道みたいだ。他宗派のひとがよくいう「真宗さんは仏教やなくて、〈真宗〉や」みたいなご意見に正直、同感してしまう自分(現象)がいる。お寺の財産巡ってえげつない分裂したはるし。

 加えて「宗論はどちら負けても釈迦の恥」とはよくいいますけど、具体的な教学のうえで疑問なのは、果たして『教行信証』真実土文類第五に著された「不可思議光如来」や「真の報土」たる「無量光明土」だけが、『唯信鈔文意』にある三願転入の「いろ・かたちのない法身」「一如の光明」だけがほんまの阿弥陀如来や~なんて限定する必要があるんかなあと、浄土三部経を等しく聖典といただく身としてはどうしても愚考してまいます。

 真宗さんではたから見ると異常なくらい問題視される「それは『自力』や!」みたいな批判も、念佛はあくまで往生のための正因=修行やなと素直にいただいたら全部解決するし。

 念佛、ほかの修行に比べたらラクなだけで、無間に欣求浄土せなあかんの普通にめちゃくちゃ修行やと思う。やからうちとこでは別時念佛を修して「心をも身をも励まし調え進むべきなり」といただいて、日々の生活のなかで緩んでしまった現象の帯を引き締めなおすんやと思ってる。親鸞さんの実体験としては、間違いなくひとえに他力本願をたのむだけの受け身の自分(という現象)の、『無量寿経』第十八願でしか味わえない不可思議光如来やったんやろけど、ひとの数だけ〈世界〉は在ります。

 なるべく多くの人の上で、できればすべての人の上で動作するものが仏教やないか。

 でもそんななか、どんな「悪人」もウチとこのご先祖さまが往った光の報土に連れてったるから、みんな平等に釋家の子どもにおなり~云うて、本山行ったらほんまに破格のお布施で親鸞聖人の御連枝にお剃刀あててもろて、法名までもらえて輝かしい「釋一族」の仲間に(書類上は)入れてもらえるのはすごいし、それが仏教かどうかはひとまず措いて、ほんとうにありがたいことやと思う。

 これは、師僧(大仰な書き方してるけど、ふだんは「おっさん」て呼んでます)に教えてもらったことの受け売りやけど「真宗さんは如来からいただいた〈信〉が先にあって、後から報恩の念仏が湧き上がってくる。うちとこは先ずお念佛という〈行〉があって、それに自然と〈信〉が伴ってくる」という解釈がある。この〈行〉と〈信〉という往生極楽には欠かすことのでけへん両輪の先後に、仏教か〈真宗〉かを分ける分水嶺があるような気がする。おっさんは「浄土宗は『ウルトラマン』で、真宗は『帰ってきたウルトラマン』や!」とも云うたはった。ちょっと世代やないからピンとけえへんかったけど「科学特捜隊のハヤタ隊員がベータカプセルという変身アイテムを使って変身するのがウルトラマン。それに対してMAT(怪獣攻撃隊)の郷秀樹隊員が危険を感じるとアイテム無しで変身するのが帰ってきたウルトラマン」らしい。二作品とも観たことある人やったらなんか分かりそうな譬喩っぽいけど、まあ似てるようでこだわる人にとってはぜんぜんベツモノっちゅうことなんかな。

 師は譬え話が好きで、ほかにも「これは私の勝手な解釈ですけど」と前置きして「如来を母、衆生を子に譬えると、『抱っこして!』と母に手を伸ばしせがむのがわれら浄土宗で、黙ってお母さんが抱っこしてくれるのが真宗さんや」とも云ってはった。

 往生極楽できたら、親鸞さんともお逢いして、このへん直接聞法してみたいなあ。俺は同じ念佛者である以上、真宗の門徒さんも倶会一処できると信じてます。

 最後の最後に、わが宗に伝わる〈二河白道〉の譬喩をお借りしていろんなとこを悪しざまに書いてしまったけど、何度も書いておくけど、〈世界〉はひとの数だけある。あなた(とされる現象かも)が実存的な苦しみのなかで出遭った光がキリストやったり、日蓮(大)聖人やっても、それに完全に服従することができる限り、俺(とされる現象)はすごいなぁと思うばかりや。

 光はあって、それをあなたがどの形の窓から眺めるか、というだけな気もする。このへんは凡夫には分からんところやけど、人を裁いたり、悪人を地獄にやったりせえへんと、すべてを救う「光」は阿彌陀如来一仏だけとちゃうんかなあ。

 「立つ鳥跡を濁さず」とは云うけど、われわれがこの世界からさようならするとき、世界はわれわれが産まれる前よりもよくなってるやろうか、とよく考える。生物学的死は決して行為を清算しない。「死ねばチャラ」ではなく、われわれの営為のすべてがバタフライエフェクトのようにどこかに影響し、作用して、ぐるぐるといくつもの「世界」を輪廻し続ける。

 まぁほんましかし、教譽和光というこの現象だけはなぁんもムツカしいこと考えんと、最期まで南無阿彌陀佛いうて死ねたらええなあと思う。

 願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国。

 合掌