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拝啓、叔父さん

下宿人

 私の叔父はたぶんニートだった。

 「たぶん」というのは、実際のところを確かめたわけではないからだ。

 叔父は両親、つまり私の祖父母と同居していて、日中はだいたい家にいた。仕事をしている感じもないし、かといって学生というわけでもない。

 初めて叔父に会ったのは私が4、5歳の頃だが、当時30歳くらいだったろうと思う。丸いフレームの眼鏡とマッシュルームっぽい、床屋に行くタイミングを数週間逸したような髪型を覚えている。全体の雰囲気はやわらかく、ぼんやりした印象の人だった。

 母は叔父のことを話題にすることがなかった。母と叔父が直接話をしているところも見たことがない。なにがあったかは知らないが、母に尋ねたら不機嫌になって面倒くさそうだと思ったので、現在まで詳細を知らずじまいだ。

 母と叔父のことだけでなく、私の育った家庭では、親族の話題が極端に避けられていた気がする。正月やお盆で親類が集まるという習慣もない家庭だった。おかげで私は断片的にしか親族を知らない。

 しかし、その話は今は置いておこう。

 叔父の話に戻る。

 親族との交流が少ない家庭であったが、母方の祖父母の家には年に数回訪れる機会があった。私が滞在するのは、だいたい昼前から夕方頃までの短時間だったこともあり、叔父に会うことはほとんどなかった。叔父は2階の自室にいることが常であり、遭遇することがほとんどなかった。

 私が祖父母宅で昼食を摂るときでさえも1階の居間に現れることはなかった。

 叔父に関する記憶で一番古いのは、4、5歳の頃のものだ。

 母に連れられて祖父母宅を訪れたが、やることがなく居間でぼんやり座っていた私に、「パソコン(と言っていたかは分からないが、とにかくコンピュータの類)を見てみないか」と、叔父は声をかけた。私がうなずくと、ついてくるように叔父に促された。

 居間を出て、少し進んだところにあるドアを開けると、急勾配の階段が現れる。階段をおそるおそる進み、2階に上がる。2階にはドアがひとつしかなく、そこが叔父の部屋のようだった。叔父がドアを開けると、オレンジ色っぽい光が廊下に漏れた。叔父の後に続いて部屋に入る。

 蛍光灯が点いてはいたが、雨戸が閉めっぱなしで薄暗い部屋だった。部屋の内部の様子はあまり覚えていない。机の上のパソコンや、本がぎっちり詰まった書棚があったことくらいだ。

 パソコンはとても大きかった気がする。オセロができるというので、見せてもらった。

 私は極度の人見知りでほとんど話さなかったし、叔父もあまり積極的に話をするような人ではなかった。叔父はパソコンでオセロを黙々とプレイし、私はその様子を黙って眺めていた。静かだった。

 近所の店に叔父と出かけたことがあった。

 小学校低学年の夏休みの時期だ。私はその日、両親の都合で祖父母宅に朝から預けられていた。この日、祖父母は庭の手入れをしたり、色々用があったらしく、慌ただしくしていた。遊びに付き合ってくれる人がいなかった私は退屈していた。

 持ってきたカバンに入っていたチョロQを廊下で走らせたりして遊んでいたが、すぐに飽きた。

 退屈だった。居間でごろ寝して、畳の表面を指で撫でていた感触をよく覚えている。蒸し暑い日であった。

 寝転がって天井の模様を眺め続けていると不気味な模様に見えてきたので、天井を眺めるのは止めた。

 縁側では、祖父母に飼われている黒い雑種の犬が寝ていた。バニラアイスが好きで、誰かがアイスを食べていると愛想よく寄ってくるやつだった。

 午前中はなんとか時間潰しできていたが、昼に祖母が作ってくれた素麺と牛大和煮の缶詰を食べた後は本当に手持ち無沙汰になった。

 (祖母は私が来ると、いつも牛大和煮の缶詰を出してくれた。結構な値段がしたと思うのだが、私はこれが大好きだった)

 昼食後、居間でぼんやりしていたらいつの間にか眠っていたようだ。喉が渇いたので麦茶を飲もうと台所に行くと、叔父がいた。

 私が小さく会釈すると、叔父も会釈した。

 冷蔵庫から麦茶を出していると、叔父は戸棚からコップを出してくれた。私はコップに麦茶を入れて、その場で飲み干した。

 居間に戻ろうとした私に、叔父はアイスでも食べないかと声をかけた。私はうなずく。

 叔父は庭先で作業をしていた祖父母に、私を連れてアイスを買ってくると伝えると、玄関に向かった。

 祖父母の家は坂の下にあり、どこに行くにも、まずはだらだらと続く坂を歩いていかなければならなかった。私は叔父の斜め後ろあたりをついて坂を歩いていた。道路のアスファルト上には陽炎が揺れていた。

 真夏の暑い盛りなのに、叔父は長袖のシャツを着ていた。道では誰ともすれ違わなかった。

 一番近いスーパーに行くのかと思っていたが、叔父はスーパーに行く方向とは反対の方向に曲がった。しばらく進むと、コンビニのようなたたずまいの店が見えてきた。よろず屋的な店だった。昔は酒屋だったのであろう、店先にはビールケースが積んであった。

 数年後、この店はベイスターズのロゴが特徴である地元ローカルコンビニチェーンになるのだが、当時は酒屋の延長線上にあるような店だった。

 店に入ると、叔父は「好きなの選びな」というので、私は熟慮のうえ、メロンを模したカップに入っているアイスを選んだ。私がアイスを選んでいる間、叔父はレジにいた中年男性と何か話をしていた。叔父にアイスを渡すと、煙草2箱と一緒に会計をした。

 店を出て、外のベンチに叔父と並んで座り、アイスを食べた。木のスプーンで食べるアイスは食べにくいのだが、非日常感があって、美味しく感じた。叔父は煙草を吸っていた。

 何を話したかは覚えていないが、たぶん、話題もなくて黙々とアイスを食べていた気がする。

 早々にアイスを食べ終えてしまったが、叔父の煙草タイムは終わらないし、暑さがひどいので、私はクーラーのある店内に入って時間を潰していた。

 店内をふらふらして、書籍コーナーで足が止まった。マンガ雑誌だけでなく、児童向けの小説なども置いてあった。そういえば、読書感想文の宿題があったなと私は思い出した。

 煙草タイムを終えた叔父が書籍コーナーにいる私を見つけると、「本読むのか?」と訊かれた。夏休みの宿題で読書感想文を書くのだが、読む本が決まっていないという旨を伝えた。叔父は書籍コーナーを一瞥すると、「これは面白いよ」と1冊の本を手渡した。

 『海底二万マイル』だった。ポプラ社の児童向けのものだったと思う。

 私がそれを読みたいと言うと、叔父は『海底二万マイル』をレジに持って行った。このとき、お礼をきちんと言えなかったが、内心ではとても嬉しかったのを覚えている。

 祖父母宅に帰ると、叔父は買った煙草を1箱、居間にいた祖父に渡し、早々に2階に行ってしまった。祖父は私が持っていた『海底二万マイル』を見て、「あいつに買ってもらったのか」と尋ねた。私はうなずく。

 「よかったなあ」と祖父。不機嫌そうな顔をしていることが多い人だったが、このときは機嫌が良さそうに見えた。

 夕方に両親が迎えに来るまで、私は『海底二万マイル』を読みふけった。翌日には『海底二万マイル』を読み終えていた。この頃から私は本格的に本を読むようになった。

 叔父に関する記憶はここで途切れる。

 数年後、祖父が亡くなるのだが、その葬儀に叔父の姿はなかった。

 私が中学に上がってからは祖父母宅に行くこともほとんどなくなり、いつしか叔父のことも忘れていった。叔父の名前すら今となっては思い出せない。

 祖母は私が実家を出て数年後に亡くなったのだが、このときも葬儀に叔父は不在だった。

 叔父が祖父母の葬儀に不在だった理由はよく分からない。

 祖父母が亡くなったので、相続で祖父母の家をどうするのかという話が母と叔父の間であったはずであるが、どういった結果になったかはまったく分からない。

 昔の記憶を頼りに、グーグルマップで祖父母の家がどうなっているのか調べてみたことがある。案外簡単に見つかった。ぼんやりとしか確認できないが表札が別の苗字になっていた。

 叔父はどこに行ってしまったのだろうか。案外普通の勤め人になって暮らしているのかもしれない。

 最近、古本屋で『海底二万マイル』を見つけた。当時、叔父に買ってもらった児童版ではなく、ハードカバーの重厚なものだ。

 引っ越すことがあっても、この本は手元に置いておこうと思った。