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適当に畑ニート

吉永

 2024年6月中旬。もうすぐで遅めの梅雨がやってくる。家の畑はほぼ満席で、夏野菜たちはこれから最盛期を迎える。野菜を育てている者にとって、今が一番胸躍るいい季節なんじゃないだろうか。

 最近は、はち切れんばかりに丸々と太った大玉トマトがいくつか色づいてきて、キュウリも小さく実をつけ始めた。収穫が非常に楽しみである。

 土いじりをして、畑で育つ野菜に癒しをもらい、そして食べる。労働から離れ、そうやって日々をゆっくりと過ごしている。

 ニートである今は、貯金を切り崩して生活をしている。しばらくは生活に困りそうにないものの、出費は抑え目だ。働いていない以上、金銭的な不安が付きまとうのは、ある程度仕方がない。

 それにしても、畑がある生活は、自分としてはなかなかに楽しく充実したものである。日中は畑仕事で体を動かし汗を流して、夜はしっかり眠るという、農耕民族とまではいかないが、そういう人間的な暮らしを気に入っている。

 野菜も出荷するわけではなく、自分たちだけで食べる分しか栽培していないので、形が悪かろうが虫に食われていようが、そんなことはさして気にすることではない。食えればいいと思っている。

 畑をする上で、土壌改善や肥料など、気を使わねばならないことがたくさんあると思うが、私はそれらを非常に適当にやっている。畑全体に油かすと堆肥をざっとまいて、土と混ぜ合わせるくらいのことはしているが、土の酸性度を測るとか、野菜ごとに合う肥料を与えるとか、そういうことはやっていない。とりあえず植えてみて、順調に育って収穫できたらラッキー、という感じだ。ダメだった時に考えればいい。畑を始める前、インターネットや本で情報収集をしていたが、こういうのは知識を増やすばかりではなく、とにかくやってみる方がいいと思う。マニュアル通りでなくとも、結構ちゃんと育ってくれることの方が多い。

 畑を始めてまだ2年目だが、1年やるだけでも、季節ごとに何を植えるだとかどういう作業をしたらいいかというのがなんとなく掴めるように思う。特別、畑が好きというわけではないし、正直言うと耕す作業とか本当に面倒くさいと思うのだが、今年は何を植えようかと計画を練って、それに沿って作業をするのは結構楽しい。

 そもそもの家庭菜園を始めたきっかけは、そういう環境が整っていたからというのと、労働の辛さがある。

 近所では家庭菜園をしている家が多く、たまに野菜をお裾分けしてもらっていて、さらに自宅の傍には畑ができそうな土地もあった。仕事から疲れて帰ってフラッと庭に出ると、父が世話をしている植物が並んでいて、興味こそなかったものの、なんとなくそれらに癒されるのを感じていた(植物からは、ストレス軽減に効果がある成分が放出されているらしい。それに、緑の色も視覚的にいいそうだ)。そうしているうちに漠然と、野菜を育てて食べる生活って、なんか楽しそうだし最高なのでは?と思うようになった。かなり安易な考えである。

 畑をしながら働いていた頃に、なんとかして労働から脱する、もしくは軽くする術はないものかと、ネットの海をさまよっている時に見つけた、「半農半X」というワードに強く惹かれた。これは、半農半X研究所の塩見直紀氏が、1990年半ばより提唱しているライフスタイルである。小さな農で自分たちが食べる分を作り、残り半分の労力で好きなことややりたい仕事をする、という生き方だ。守銭奴のような質で、そんなに物欲もない私は、これで生きていきたいな~と軽々しく思っていた。できれば働きたくないが。もちろん、収入や支出、向き不向きなどを熟考した上で行動に移した方がいい。

 軽い気持ちでやっているので、先の見通しは立っていない。私のことは、適当に生きている奴もいるんだな程度に思っておいてほしい。今の自分は、Xの部分の無い、単なる家庭菜園をやっているニートである。

 この生活を続けて、約半年が過ぎた。働いていた頃と違って、随分と心身ともに元気になったと思う。

 短大を卒業してから今に至るまで、主に医療事務や一般企業の派遣社員として働いてきた。非正規でフルタイム。1日のほとんどの時間を労働に充てていた。通勤時間もそうである。いや、もはや自宅での食事や風呂、就寝時間までの短い自由時間、そして睡眠、とにかく、おはようからおやすみまでの全ての行為が、労働に関係していたような気がする。何をしていても、常に労働のことが頭の片隅にあって、それがじわじわと精神を蝕んでいた。

 初めての就職先は病院。朝は早く、帰りも遅くなる日が多かった。一番ひどい時は、深夜1時まで残業。この辛い経験があるから、どこに行っても大丈夫だと思っていたが、全然そんなことはなく、残業がほぼないようなホワイトな職場でも、働きに出て帰る生活を続けるというのは辛かった。

 派遣先だった会社では、1日中パソコンと向き合っていた。そうしていると、すごく眠たくなる。夜しっかり寝ていても昼寝をしても、そうなるのだ。マウスを握ったまま、よく船を漕いでいた。立ち上がってウロウロしてみても、またすぐに意識が朦朧としてくる。それが嫌なので、エナジードリンクやコーヒーを流し込んでカフェインの力を借りてやり過ごすが、そのせいで、帰る頃には動悸が激しくなり、息を切らしながらバスに乗ることがしばしばあった。こんなことやっていたらそのうち死ぬかも、とか思いながらもやめられない。時間と心に余裕がある今なら、身体壊すような働き方するなんてバカだったなぁと振り返ることができるけれど、その時は、仕事中の眠気をカフェインに頼る以外のことを考える余裕がなかった。

 働くことが悪だとは思っていない。ただ、労働時間が長すぎる。1日8時間、週5または6日なんて、体が持たない。生活が、働く為だけにあるような絶望を感じていた。労働が苦痛だと感じる自分のことを責めたこともあったけれど、いざニートになり、日々の暮らしの中で自分と向き合い続けるうちに、どうもそういう普通の働き方が合っていないのだと気付いた。

 私は長らく「普通」というものに縛られていたように思う。世間一般にある価値観として、思いつくところで挙げると、家庭を持つこと、そして主に正社員としてフルタイムで働くということだ。それでいくと、非正規でやってきた私は、そもそも普通ではなかったのかもしれないが。

 私は、家庭を持つことを強く望んでいるわけではなく、フルタイムも合っている気がしない。でも、そういう生き方をしなければならない、と常に感じていた。それはやはり、周りと同じようにできない自分はダメな奴である、という劣等感や圧力を感じていたからである。

 先に述べたような「半農半X」というライフスタイルは、そこから外れたものであると思う。決して容易なものではないだろうが、少なくとも私にとっては希望であった。

 よく考えてみたら、世の中にはいろんな人がいて、それぞれ違う考えを持って生きているわけだから、自分が一定の価値観から外れることなど、そんなにたいしたことではないのだ。世間にある普通というのは、そういう考え方、生き方をしている人が多いというだけであり、人の数だけ「普通」があると思っている。

 なんだかんだと書いてきたが、私は良くも悪くも適当な質なので、ニート生活をそれなりに楽しめているのだと思う。それに、特に最近は、あらゆることを楽観的に捉えられるようになったと感じている。完全にではないにしても、普通という価値観で凝り固まっていた頭がほぐれてきたからだろう。自分に合わないと感じることを、心身を壊すまでする必要はないと思っている。何か少しでも、心が安らぐような事柄に意識を向けてみると、そこから何かが変わってくるかもしれない。

 この生活がいつまで続くか、そしてどうなっていくのかは分からないし、考えていかなければならないだろう。

 時には、また派遣とかでフルタイムで働き、せっせと貯金する生活をするかもしれない。はっきり言って嫌ではあるが、それはそれで、まぁいいなと思う。もしその選択をしたとしても、今度は適度にやっていけるだろう。

 今は、畑の夏野菜で冷やし中華がしたいな、とワクワクしている。絶対おいしいに決まっている。

 日々に穏やかな瞬間を見つけて、一日一日を大事に過ごしていたら、きっと大丈夫だと私は信じている。