学生から無職へ、十何年の随想録
ろっさん
2014年8月 灰色の滝を漕いでいた。
なにかの比喩表現であってほしかった。顔面に叩きつけられる大粒の豪雨は散弾のようで、琵琶湖の西側を縦に貫く国道には深さ数㎝もの水溜まりが延々続いている。クロスバイクの荷台に預けているバックが浸水していないか気がかりだ。時刻は昼を過ぎた。家を発って1日目、この滝の中をあとどれだけ進めるのだろう。
大学1年最初の夏合宿。エリアは信州、開始地点は富山市だった。各々が公共交通機関に頼るなか、おれは総距離340㎞の道を自力で漕いでいた。趣味と言える趣味は自転車くらいしかない自分にとって、ささやかな自己表現だったのかもしれない。
たまる疲労をおして峠を抜け、日が沈んだ見知らぬ土地で途方に暮れた。泊まる場所など当然決めていない。古いガラケーと地図だけで何ができるだろう。もうやけくそだった。不安と緊張の中、雨風が防げる人気のない場所をようやく探し当て横になった。銀マット越しの地面が固い。これじゃホームレスだ。
福井県敦賀市、役所の駐輪所。ここが人生初の野宿場所だった。
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サイクリング同好会。それが僕の入った大学サークルの名前であり、今も続けている趣味を提供してくれた場であった。クロスバイクに荷台をつけ、鍋・寝袋・着替えなどを積む。全国を各地方に区分けし、夏と春の長期休暇を利用して野宿旅することがもっぱらの活動内容だ。キャンプ場で泊まることは珍しい方で、いつも終業後の道の駅をあてにした。夜遅くに建物の裏で炊飯し、マットを敷いてその辺で寝る。テントは使わない。
常識の殻の中を生きる我々にとって、ときに殻を破り外の価値観へ目を開かせる行為は新鮮で心地いい(程度はあるが)。
人生初の野宿旅1日目、この散々な行程で得た知見はなんだったのか。即物的に見れば「外で6時間ほど横になればホテル代数千円が浮く」だろうし、あるいは一度慣れてしまったらもう一生手に入らないものたち……新鮮さ・不安・初期衝動・世界をあるがままに観察できていた頃の疑似体験、なのだろう。
いずれにせよ、生きていれば起こりうる様々な「人生初」のなかで、いまだこの日を鮮明に覚えている。このときは確かに、目の前の出来事に対して全力で・必死で・楽しんでいた。
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2007年?月~ 「これでまたお勉強、頑張れるよね。」
旅先、レストランでの食事、何かしら褒美となるものを与えてもらうたび母親から投げかけられた。せっかくのいい気分が台無しだ。また担保を取られた。だが親に食わせてもらっているだけのおれになにが言えるだろう。
親の機嫌をとるのは単純で、とても面倒だ。目につく場所で勉強し、テストで上位に入る。ゲームをやるなどもってのほかで、ヒステリックに火を付けぬよう注意せねばなるまい。
もちろん、育ててもらった両親には感謝しているし、恩を仇で返す意図などない。だが、幼少期から押しつけられる義務に嫌気がさすのは無理からぬ話であった。期待に応えるため義務を果たす。期待を裏切らないため対価を払う……。小学校高学年の受験期、このやり取りは普通だった。
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おそらく期待する行為そのものに猜疑心を抱き始めたのはこの頃からだったのだろう。期待とは、対象について先の未来に何がしかの対価を求めることだと思っている。これは時代を問わず普遍的に見られる感情だ。家・車・株・子供……大金をつぎ込んだものにはそれなりの見返りがあって当然だと人は考える。
だが自身が期待をかけられる側の対象になった瞬間、発生する義務の重さに報酬ごと投げ出したくなる。ただ自分が怠け者なのだろうか、それとも他者に見返りを求められることへの反発なのだろうか。ともかく、おれにとって期待は毒になった。
金さえ出せば自分が神だとでも言うかのような客と対峙するとき、己の常識で世界が回っていると思い込んでいる人間の相手をするとき……いつでもその醜さを目の当たりにした。
期待とは対価を求めることであり、対価を求めることは傲慢だと思う(見返りがあるのは当然という態度を含めて)。もちろん自分はそんな傲慢に染まる真似などしたくない。
大人になってから他者はもちろん、自らにも期待することをやめた。
こう書くとあまりにひねくれてしまったように見えるが、案外気楽になったことのほうが多い。何かしら計画通りにいかなくても「まぁ自分のことだから」で片づけられる。最初からうまくいく方が珍しいと期待を捨てることで自己嫌悪することがなくなり、ゆとりを持つようになった。
自らにも期待しないということは自身の力を低く見積もるということであり、よって「おれのことだから作業は難航するだろう。早めに準備した方が良いな」のように怠惰を打ち消せるきっかけとなる。当然、入念な前準備の見返りに成功を期待しているわけでもない。「うまくいったらラッキー」程度がちょうどいい。
SNSを覗くと、思い通りにならない人生やうまくいかない人間関係が原因でやりすぎなくらい怨嗟の声をあげる人を見る。頑張りなどの対価があればそれ相応に報われるはずだという期待を捨てきれないらしい。だが、むしろ報われないことの方が普通であるという諦観に似た覚悟こそ「ゆるく生きる」を実現する近道なのではないか。
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2021年1月 夜22時前 大阪のオフィス。いつも通りデスクについて十数時間。
早く帰りたい……。入社してから今の今までこの感情が尽きることはなかった。地元から大きく離れることなく、比較的安定した業界をということで公共交通機関に就職した。しかし会社自体が自分に合っているかなんて入ってみなければわからない。
「もしもし、もうすぐ帰るからね。」
課長が猫なで声で携帯先にいる誰かとしゃべっている。おそらく帰りが遅いことを心配した家族からだろう。勘弁してくれ……。おれが十数年この労働を続けた先に待つのはあの姿なのか? 出世に期待するのはやはり間違っているようだ。いや、期待すること自体が悪だったか。
2019年の冬から不穏な影を見せていた感染症は、コロナという呼び名で社全体の業績もおれの給料も傾けさせた。法規制だか人件費削減だか知らないが、タイムカードを切ってから残業をする風潮も常態化している。部署そのものがブラックなため常に人手不足で、それを補うのは既存戦力だけ。絵にかいたような悪循環だ。コロナ禍の前は1億に届くような売上を誇ったと言われても、おれにとってはその業績が低下する責任だけのしかかる。ここ最近は明日が来るのも嫌になっている。仕事が終わって帰って寝たらまた出勤だ。明日も労働で塗りつぶされるだけの1日に終わる。
結局、この労働が真にやりたいと思えるものではなかったのだ。しかしやらなければ収入がない。社会的信用も関わってくるだろう。しかし……しかしである。要はそれだけだ。自身に内在する意志とは無関係の社会的関係や外圧が、己の時間(あるいは人生そのもの)を捻じ曲げている事実が耐えられなかった。
登山家が誰に強制されるでもなく、自分の意志でわざわざ危険な山へアタックするように、自分の中に立ち現れる内在的意志というものは社会的外圧から関係ない形として現れる。当然、社会の中で生きていく以上は適当なところで折り合いをつけるべきなのだが、だからと言って内在的意志を全く無視した人生を歩もうものなら他人の意見だけで動く空っぽの人生を歩む羽目になるだろう。「働きたくない」という意志はちっぽけに見えるかもしれないが、自分から生まれた確かな意志なのだとしたら裏切るべきではない。
大学を卒業してから3年、自分としては長くもった方だろう。入社してから半年と経たず見切りをつけていたので、今までの給料はほとんど貯金にまわした。昨晩の残りを昼の弁当にし、飲料は水道水、通勤代は補助が出るため無償だ。1日に使う金額は0円が当たり前だった。次の年度末で退職届を出してやる。
ある程度の貯金と多くの自由時間、日々損なわれ続ける若さを手元に確保し、残る二十代をどのように生きるか画策していた。
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ここ数年間、人間の起こすあらゆる行動はメソッド(方法、手段、アプローチ)に過ぎないのではないかという考えが強くなっている。
ニーマガ冊子版vol.1では「人は結局幸せになるため生きるのであり、あらゆる動作は幸福を得る手段として集約される」というようなことを書いた。例えば、孫に囲まれて死ぬ、大金と女を侍らせる、自然の中でスローライフを満喫する……。一見すればそれら自体が人生の大きな目標、絶対的な終着点のように見える。しかし結局は、自分の人生が幸福だったと胸を張って言えるような実績を求めているだけで、厳密にいえば幸福そのものとは別個だと考えている(つまり、孫に囲まれて死ぬという動作でさえも結局は自身が幸福になれたかどうかを確認するためのいちメソッドに過ぎない)
そうなると重要なのは「そのメソッドが自分にとっていかに合っているか、また効率的であるか」だろう。
サラリーマン風メソッドが僕に合わなかった事実はここにある。現代日本でメジャーな価値観は大まかに見て「若い時期を労働に費やし、金・家・家族を手に入れ老後から自由を堪能すること」だ。最も貴重であろう若い時期を労働に捧げ、老いてから自由を手に入れる。そんなメソッドは僕にとって非効率にしか見えない。 金や名誉にさして価値を感じない以上、自由な時間に比重を置いた生活を送られれば充分だ。老後のことなんて正直どうでもいい。僕にとって最適な暮らし方を実現できるメソッドが、あとから「ニートとフリーターを行き来している」という表面的なラベル付けをされただけに過ぎないのだ。
ちょっと極論めいた主張になるが、生き方にフォーカスを当てた際、世間と僕の方針は正反対に見える。「世間の人々は老後(将来)に力を入れ、自分は目先(現在)に力を入れている」というようなイメージだ。
こんなことを思いついたのは、将来が漠然とした不安に包まれているだとか、老後のことが心配だなどと口にする人が世に多いからである。実際に、世間一般の人々は若い時期こそ労働に費やすことが普通と考え、老後を豊かにできるかどうかばかり気を揉んでいる(ように見える)。僕が無職であると知った途端に「将来どうするの」という問いが飛んでくるのがその証拠だ。もちろん僕は老後なんて一切考えていない。
このギャップが生き方の方針に正反対ともいえる差を生み出した。それでも僕は遠い将来より比較的近い目先の状況、例えば日々を快適に暮らそうなどといった刹那的目標にこそ注力したいのだ。
一体どうしてなのか。思うに、世間一般と僕とで己の人生を総評価するタイミングがずれていることに原因があると見ている。
皆は生まれてから今までの人生をあらいざらい評価してみたことはあるだろうか? 程度はどうあれ、そうそうするものではないはずだ。たぶん、世間一般の人たちが人生全体を振り返るには、自分の最期を自覚する瞬間が必要だ。老いたとき、不治の病を宣告されたとき、そんなときこそ私の人生はこうだった、と言えるようになる(映画をラストまで見ていないのにレビューなど書けるわけがないのと一緒だ)。
いっぽう僕はしょっちゅう自分の人生を総評価している。頻度で言えば最低で週1のペースだ。自分の人生を振り返っていますと言えば聞こえはいいが、要は週に一度「今死ぬとして、おれは果たして幸福だったと言えるのか?」みたいなシミュレーションをやってしまう。
お前は最低週1ペースで命の危機に瀕しているのかと聞かれると、実は完全に否定する自信がない。詳しくはニーマガvol.1に書いたとおりだが、脳に疾患を抱えているためである。半分本気で自分が今から死ぬことを考え、それにより人生の総評価や思い残したことの再確認を自らに課している(医者曰く悪性のものではないため、幸いすぐ命に関わるものではないらしい)。
完全な悪癖だ。しかしだからこそ、毎週のように人生を振り返る機会が与えられ、「いま」に比重をおいた暮らし方を実現しようと考え直し続けられる。
老後を懸念せず刹那的に生きていけば、いざ老いたときの末路は悲惨なものになるかもしれない。それを受け入れるだけの覚悟が僕という無職には必要だ。しかし、将来や老後の為に今を苦労しろという世間一般の風潮も、また同等レベルの覚悟を強いているように見える。
こんな思想だからこそ、自分が大して好きでもない労働に今日この1日が浪費されたという事実に腹を立てるし、浪費するにしても自分の好きなようにできなかったかを追求する。ちなみに親戚や先祖の死因に癌が多いため、脳疾患を逃れたとしても老後のオチがうっすら読めている。世間の人たちと違い、老後に大して期待できない(するつもりもない)からこそ現在を大切にしたい。
改めて文章化すると大仰になってしまったが、自分がニートであることに引け目が無いのはこういった理由である。僕の天秤は世間の目をとても軽く見積もるので、己の生活と比較した際はどちらを優先するかなど自明の理だったのだ。
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2024年3月 管理棟の窓から山奥のキャンプ場を眺めていた。
つい最近ぶり返した寒波が膝まで埋まる雪を降らせてくる。いま目の前を埋め尽くしている杉の木たちも、粉砂糖のように降りかかった雪が解けてしまえば黄色い猛毒をぶちまけ始めるだろう。最近はふきのとうが旬を迎え、ひたすら天ぷらにして食べている。春の山菜は山の醍醐味だ。そういえば山奥にやってきたときも、金を使わずに暮らしていくことが楽しくてしょうがなかった(楽しい理由は明白で、金という対価が無いことにより期待を消失させられたせいだろう)。
山奥生活も2年間続けると今年の展開もなんとなく読めてくる。鹿の狩猟、野菜づくり、虫や蛇などの食料採集……その土地固有の様々なアクションを体験してきた。驚きや新鮮さはなくなっていき、慣れと既知があるだけの日常に溶け込んでいく。ここに留まり続けるなら、次に起こるフェーズはさしずめ経験と知識を生かした発展といったところだろうか。鹿肉や作物を売ったり、なにか創作活動をやったりする感じだろう。
しかし、最近は別の暮らし方に興味が向いている自分がいる。
二十代ものこり数年になった。今年どのように暮らすのかをなんとなく読めてしまう山奥で、このまま二十代を使い切るのが少し惜しくなったと言えば噓じゃない。そもそも山奥生活は三十代や四十代からでもできる。そんな考えが頭をよぎるようになった。きっと頭のどこかで次の未知なる環境、ひりつきを求める自分がいるのだろう。
いちど思いついてしまった以上はやってみたい性分だ。もしやらなければ「あのとき試してみたらどうなっていたのだろう」といつまでも後ろ髪をひかれてしまう。完璧主義にありがちな傾向らしいが、食堂のメニューはすべて目を通してからじゃないと注文が決められないし、テレビだって気になる番組があってもチャンネルを一通り見まわしてから見始める。
ある程度固まった旧生活を破壊すると、新鮮さと初期衝動に富んだ新生活がやってくる。今は多種多様なライフスタイルを渡り歩く時期としよう。腰を落ち着けるのはまだ先でいい。
とにかく目がかゆくなるのはもううんざりだ。日本で明確に花粉がない場所と言えば沖縄がある。太平洋の青い海が脳裏に浮かんだ。海沿いの生活……なかなか悪くない。正直寒いのがとても苦手なので、温暖な地域はそれだけで価値がある。
4月の旅行先が早くも決まった。この1年は、きっと次の暮らしを探す放浪の年になる。
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労働に疲れた人生を癒したい。そんな場合、出費を抑える生き方にシフトすることは正しい選択だろう。それを実現するために山奥ニートというメソッドを選ぶのは間違いではない。
しかしこの山奥ニート、万人が末永く続けられるものではない。
山奥ニートとして生活している人の多くは数年ほどで卒業しているのはご存知だろうか?(これは『山奥ニート始めました』の元住人をインタビューした記事しかり、SNSで山奥ニート的生活を発信していたほかの人しかり、僕も含むリアルでの知り合いもしかりだ)
無論、山奥ニートというメソッドが失敗だと言いたいわけではない。やりたいことが見つかった、就職した、など次の人生にステップアップする場合もあれば、結婚・育児によるやむをえない事情もあるだろう。そういう場合なら喜ばしい。
しかし他の様々なライフスタイルと同様に、山奥ニート生活にもデメリットはある。
山奥のようなド田舎は基本的に自然との戦いが多く発生する。春は視界が黄色くなるほどの花粉、夏から秋はブヨ・マダニなどの恐ろしい害虫、永遠に伸びてくる雑草の駆除、冬は大雪だ。山奥ニート系列のシェアハウスは基本的に木造建築なので、冬は室温でも息が白くなるほど寒い。この寒さは最長5月まで続く(この豊かな自然に加えてスーパーはおろかコンビニさえ無いという点も追加される)。
憧れた非日常はいずれ見慣れた日常になり、見えてこなかった粗と対峙する日がいずれやってくる。問題はその対峙が今後も続く中で、果たしてその土地を好きでい続けられるかだ。
すべてが快適とは言い難い自然に加え、さらにシェアハウス生活という不確定要素が追加される。会ったこともない不特定多数のニートたちと暮らすということが、いかに運任せな行為であるかお分かりだろうか?(同居人だけではない、そのシェアハウスを運営するオーナーの人間性も等しく重要だ。「そこに住む権利」を人質に、思い通りに動くことを強要され、ご機嫌取りに奔走させられるとしたら? そんなものは社畜以下だ。本家の共生舎を除いて、僕が実際に会った中で本当に信頼できると思った山奥ニート系シェアハウスは西東京と福島県にある2つしかない)
話を本題に戻そう。出費を抑えるかたちで人生が幸福になるような生き方を実行するはずだった。そのための山奥ニートだ。だがなんにせよ自身が幸福でないと思ったなら、それは正しいメソッドたり得ない。シェアハウス住民・オーナーのガチャに打ち勝ち、加えて収入源にするためのバイト先ガチャに打ち勝たないことには夢の生活は成り立たない。僕はTwitterで山奥暮らしを発信していた時期があり、多くの人が期待してくれていたことを知っている。しかし、皆がいざ山奥ニート生活をするとなった際はこの2連ガチャで当たりを引く必要があることを覚えていてほしい(これは都会・山奥関係なく同様に立ちはだかるものだろう)。
山の中での暮らし方と言えばBライフというものがある。土地を購入して自作の小屋を建て、家賃さえも払う必要をなくすストイックなメソッドだ。社畜生活を続けていた頃は毎日のようにBライフを実践する人たちのサイトを眺めていた。究極的なまでに出費を抑え自由を満喫する。そんな生活を実現させている人たちに憧れていたのだ。
しかし、一方でどうも腑に落ちない点もあった。土地購入から小屋建設までのスタートダッシュは当人たちも情熱にあふれ行動に打ち込んでいる。しかし一通り開拓が終了し、日々のローテーションを繰り返すフェーズに突入するとかつての気概や熱狂さが落ち込んでいく(もちろん活動を絶やさず続けている人もいる)。そんな中で小屋に興味をなくし手放したがる人、「ただ暮らすためにDIYをやっているだけ」と割り切った態度の人、それ以前にメンタル面での問題があって小屋どころじゃない人など、理想通りにいかないパターンが多々見受けられた。
人は経過とともに変容していく。振り返ってみれば今の自分と小学校低学年ほどの過去の自分は別人同然だ。思想信条は常に移り変わるものであり、いま期待している事象がたやすくひっくり返されることを常に覚悟しておかなければならない(サンタが良い例だろう。時間を隔てた自分は、サンタがいるかいないかで正反対の常識をいともたやすく対立させてしまう。そんなとき、時がたてば自分自身さえ他人レベルまで人格が変容するという可能性を自覚するのだ)。
山奥ニートブームも下火になり、かつて乱立の兆しを見せていた物件たちも減少した。Bライフも実践に踏み切るには相応の覚悟が必要だろう。思うに、1種類だけのライフスタイルにすがるような考え方はお勧めできない。あてにならなかったときにもう頼れるものがなくなるからだ。きっと我々は、多数のメソッドを確保し、色んな手札を駆使して幸福な人生に近づく手腕が求められているのかもしれない。
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2024年5月 宮崎県の最南端、都井岬。その数十㎞手前にて
ヤシの木が風に揺れる五月晴れの海岸線。ここに来るまで6日ほど経ったろうか。関西から広島へ、しまなみ海道を抜け四国にわたり、フェリーで自転車ごと大分に上陸した。そもそも都井岬に行こうと思ったのも単なる気まぐれである。野生の馬が闊歩するという風景を一度この目で見てみたかったのだ。4月は沖縄本島を一周した。次は瀬戸内海と太平洋に沿って本土を南下している。拠点は都会や空港にアクセスしやすい実家に戻したものの、移住先を探しながら海沿いを放浪する旅を続けている。関西から宮崎まで、今回も野宿旅なので費用は1万5千円程度だ。
ゴール地点手前にある田舎の港町で最後の補給地点となるコンビニに入る。1円当たりのカロリーは食パンこそ最も好コスパだ。迷わずうまい棒と合わせて購入を決めた。計120円で1000キロカロリー。鹿児島の夜行フェリー乗り場まで充分もつだろう。
「あのぉ、どこから来られたの?」
やわらかい問いかけに振り向くとおばあさんがいた。コンビニの陳列棚で話しかけられるなんて珍しい。田舎特有の距離感か。ひとしきり世間話を済ませ、おばあさんはコンビニから出ていった。孫が大阪に住んでいることから親近感を持たれたらしい。どうやらおれを学生と勘違いしたようで、結局話の終始まで無職ですと修正出来なかった。旅の最後にあたたかい会話が出来たので悪い気分ではない。そろそろおれも会計を済ませ補給に入ろう……。
「これ、もってって!」
コンビニを出てすぐ、先ほどのおばあさんが待ち構えていた。何かを握らされる。千円札だった。仰天したおれはすぐに丁重に断りを入れ、お金を返そうとした。しかしおばあさんは頑として譲らず、車に乗って颯爽と去っていった。
「マジかよ……」
一瞬の出来事だった。呆然とするほかない。
あのおばあさんの行動はなにゆえだったのだろう。おれが普段から忌避している「期待」、つまりテイクを前提としたギブではない。それは明白だ。あるいはアンチワーク哲学者を自称するホモ・ネーモ氏が提唱した貢献欲というものなのか。それにしても一連の流れに繋がりがなさすぎる。初対面からたった数分の間に決して安くない金額を、この先二度と会うことのない人間に渡すだろうか? もしくは無償の愛という、ずいぶん希少な概念の一端を垣間見たのだろうか……。
ひとまず埒のあかない思惑は中断した。今日の行程はまだあと70㎞ある。食パンを腹に詰め込んだおれはペダルを脚にかけ、岬に向かう山道を漕いだ。
ひたすら南へ進む旅はじきに終わる。
最南端に到着したらどうしようか。写真を撮り、ひととおり景色を眺めたら鹿児島県へ進むだろう。夕方のフェリーに乗ってしまえばあとは大阪だ。今晩は野宿場所を探す必要もない。この先に起こる情景をいとも簡単に計算し思い浮かべてしまう。そんな自分に軽い安堵と失望を抱くものの、おばあさんからのあたたかい好意がない交ぜになって気分がいい。そうだ、夕食にフェリーのバイキングがある。さっきのお金はそれに充ててしまおう。選ぶことはなかったはずの、この旅最高の贅沢だ。
十年前、大雨に打たれ不安と孤独のなか駐輪場で寝たおれは今のおれを見てどう思うだろうか? 容易く長距離をこなし旅し続ける自分に成長したなと得意げになるかもしれないし、なのに大きな感動もなく慣れた態度な自分にがっかりするかもしれない。
時間軸を隔てた「おれたち」は赤の他人だ。だが、記憶と経験を共有しているという点で唯一無二である。
今後の自分がいくら別人に変容していくとしても、初期衝動と新鮮さに溢れていたあの頃の野宿旅や、おばあさんからの無償の愛など、あらゆる事実がおれの歴史上に確かに存在したこととして刻まれている。どれだけちっぽけな嬉しさだろうと、世界に記録された事実は紛れもなく確かな特異点だ。
今後の人生すべてが良い思い出で彩られるなんて期待は全くしていない。だからこそ嬉しいことがあれば、それは予想を裏切る素敵なサプライズになりえる。そんな認識の受け取り方もまた、おれの手札にある独自のメソッドなのだ。
そろそろ都井岬が近づいてきた。
左手には海が延々と続く。上空から差す日光が、南国の高台を明るい緑に照らしている。爽やかな潮風が撫でる頬は、早くも緩んでいた。