ニートの社会的地位向上に向けた提言
ホモ・ネーモ
僕にはささやかな人生の目標がある。スーツを着たサラリーマンがダサく見えて、ニートがカッコよく見える価値観を育むことである。スーツがダサければいいってものではない。白Tゆるふわパーマのジャケパン男がマックブックを抱えてオフィスビルのエレベーターに乗り込んでくる姿も、併せてダサく見えて欲しいのである。要するに、ホワイトカラー労働者全般がダサく見えて欲しいのだ。
この山を登りきるためには2つの道筋がある。1つは労働の価値を貶めること、つまり労働sage(ろうどうさげ)である。ある意味でこれは僕がライフワークとして取り組んでいる活動だ。僕はまとも書房という出版社を立ち上げ、労働の撲滅を訴える著書『14歳からのアンチワーク哲学 なぜ僕らは働きたくないのか?』を出版した(もちろん、もうとっくにチェックしてくれたよな?)。それ以外にもインターネット上で膨大な量の文章を発信し、コツコツと労働sageをやっている。とはいえ、ニートマガジンの読者諸君は、僕の労働sageには飽き飽きしているだろうからここでは触れない。もう1つの道筋について、すなわちニートage(にーとあげ)について語りたい。
ニートをageるためにまず考えなければならないのは「ニートとはなにか?」である。ここでは「遊びに専念する者」と簡単に定義しておこう。世間では「労働しない者」といった否定による定義が一般的であるが、この定義を採用し続けると労働ageを知らず知らずのうちに進行させることになる。なぜなら、「労働がデフォルト状態であり、正当である」と暗黙のうちに前提しているからだ。「遊びに専念する者」という新定義へ転換することは、労働の正当性を揺るがし、ニートの地位向上を図るための第一歩である。
とはいえ、ここまでは小さな概念的転換にすぎない。さらに先に進むには、遊びに専念するニートがカッコいいという価値観を育む必要があるだろう。なるほど、現代ではphaやプロ奢ラレヤーといったカリスマ的ニートが存在している(彼らがニートなのかどうかは意見が分かれるだろうが)。あるいは株やFXでFIREを達成したニート、アフィリエイトで稼ぐニート、生活保護を手にしたニートなどは、ほかの零細ニートたちから羨望のまなざしを集めている。だが、彼らがあこがれの対象となっているのは、上手く金を集めているからであり、遊びに専念しているからではない。ビジネスインフルエンサーをありがたがるのと同じ構造である。なら、これまでとはまったく別の方法で「遊びに専念していることこそがカッコいい」という価値観を育む必要があるのだ。
山奥自給自足系、シェアハウス系のニートカルチャーは、1つの萌芽ではあった。だが、これもせいぜいオルタナティブなライフスタイルの1つとして認識されているにすぎない(「ふーん、そういう人もいるのね」というレベルである)。僕はオルタナティブロックバンド(たとえばニルヴァーナ)が音楽業界のど真ん中に堂々と鎮座したような事態を欲する。具体的には、恋する女子高校生がニートに羨望のまなざしを向け、労働で消耗する若手オフィスワーカーがニートカルチャーの発掘に土日を費やし、小学生がキラキラした目で「将来の夢はニートです!」と授業参観で発表するような事態である。
だめ連やだめライフ、寝そべり族、アンチワークなども重要な契機ではあったが、カルチャーにまで昇華されたとは言い難い。カルチャーがなんなのかを知りたければ、ヒッピーでもイメージするといい。ジョン・レノンみたいな恰好をした男女がインドから帰ってきたあと、山小屋で大麻をやりながらパーティしている場面が想像できるだろう。あるいはヒップホップでもいい。グラフィティでいっぱいのストリートでドレッドヘアのダンサーが舞い、ニューエラを被ったDJがターンテーブルを回し、フェイクチェーンでブリンブリンの黒人がラップする。そんなイメージである。
そう。ニートカルチャーに足りないのはビジュアライズされたアイコンである。「なんかカッコいい」とか「なんかおしゃれ」と思えるようなファッションであり、アートなのだ。もちろん根幹にある思想は重要だとはいえ、思想だけではカルチャー化することはない。後にヒップホップと呼ばれるカルチャーを生み出した若者たちは『ニューヨークのブロンクス区の経済的困窮に対するアンチテーゼ』というタイトルの論文を執筆したわけではない。きっとノリでカッコよさを追求した結果、盛り上がりに群がってきたインテリ層が勝手に理屈をひっつけたのであろう(知らんけど)。つまり、ニートたちが真っ先にやるべきことは、カッコよく生きること……否、イキることなのだ。
では、どうやってニートたちはイキればいいのか? まず1つはファッションであるが、「ファッション」という言葉に本能的嫌悪感を抱くニートは少なくないように思われる。「ニートの地位向上のためにはファッションが大事」といった主張を行う僕は、打算的にカルチャーをデザインしようとするセルアウト野郎でフェイク野郎だと、ニートたちの目に映るかもしれない。
はじめにハッキリさせておこう。「自分から見てカッコいい自分でありたいと思うこと」と「他人から見てカッコいい自分でありたいと思うこと」は違う。前者は内面から湧き出る衝動の具現化であり、後者はキョロキョロと他人の顔色をうかがいながら流行りのファッションを追いかける姿勢である。
もちろんダサいのは後者であり、ニートたちが批判するのも後者であろう。しかし、後者がダサいからといって、あえて「カッコつけない」というスタンスをとることは、ミイラ取りがミイラになる状況にほかならない。なぜならそのスタンスは「カッコつけることがダサい=カッコつけないことがカッコいい」という価値観に振り回されているからだ。ひろゆきに憧れ、あらゆる価値観を脱構築して悦に入る中二病患者が、「自分はシニカルでクレバーでクールである」という自己認識を抱いていることはほぼ間違いないが、彼が周囲からダサく見えるのは、結局のところ彼が「カッコつけないことがカッコいい」という価値観に尻尾を振りながら追従しているからである。
内面から湧き上がる衝動を体現し、「俺はこれがカッコいいと思っているが、なにか問題でも?」と自信満々に自分を提示することこそ、本当のカッコよさであると僕は考える。そして、その姿勢こそが、結果として周囲の目からもカッコよさとして映るのである。つまり、ニートファッションの追求とは、自らにとってのカッコよさの追求でなければならない。
では、自らにとってのカッコよさとはなにか? 人は他者の欲望を欲望するというラカンの考えに僕は完全に同意しているわけではないものの、自らの欲望(≒価値判断)とは、他者の欲望によって常に影響を受け、形作られてきたことは疑いようがない。それを最終的に自らの衝動として昇華するのだとしても、構成された素材は常に他人の欲望であり、過去の誰かのファッション、アート、ライフスタイルである。このことは避けられないし、避けるべきでもない。それをフェイクだと呼ぶのは、モナリザを描いたのは絵具職人であると騒ぎ立てるのと同じである。
モテ本の古典である九鬼周造『「いき」の構造』でも、「意気地」の重要性が訴えられつつ、同時に「媚態」の重要性も指摘されていた。要するに、意地とプライド一辺倒ではなく、他者の欲望を招き入れるだけの隙を持っていることが、「いき ≒カッコいい」を成り立たせるために必要なのだと九鬼も指摘している。裏を返せば、他者の欲望を招き入れることは、決して意気地とは矛盾しないのである。その綱引き状態こそが、「いき ≒カッコいい」を生み出す土壌になるわけだ。
となると、カッコよさを追求するニートたちは、準備段階としてファッションの基本を押さえる必要がある。ファッションとは無秩序な奇抜さの追求であると考える人は一定数存在するが、そうではない。たしかにカッコいいファッションには「未知」や「差別化」が不可欠ではあるが、それらの要素は既存の文脈のうえに配置されなければ、たんなる乱雑な高エントロピー状態として評価されてしまう。
人はファッションに限らず、なんらかの観賞や解釈を行う際には、過去に自分が体験したものの類似点を思考の起点とする。逆に過去の体験からなんの類似点も見出せない対象は嫌悪感と共に迎え入れられることになる。たとえばピザは、日本に初めて輸入されたとき「西洋風お好み焼き」と紹介されたという。おそらくなんの知識もなくピザを「ピザ」と紹介されたなら、人々は嫌悪感を抱いただろう。しかし、慣れ親しんだお好み焼きを起点として、それが西洋風になったと解釈することで、人は自らが見知った世界へとピザを招き入れることが可能になったのである。
人はまったく未知の存在を拒む。とは言え、既知のものだけで成立する予定調和な世界には飽きるし、そこにカッコよさを見出すことは稀である。だからこそ既知のものから一歩派生した程度(たとえば「西洋風」というくらい)の未知を、人は定期的に欲するのである。雨後の筍のように登場するポストバンプに飽き飽きしていた音楽市場を、西洋風バンプである米津玄師が掻っ攫っていった事態は、このように解釈すればすんなり納得できる。
ここから教訓を引き出すとこうだ。ニート特有のファッションをカルチャーのアイコンとするならば、ストリートなのか、アメカジなのか、コンサバなのか、モードなのか、なんらかのベースをもとに、ニート特有の未知を付与することが大切なのである。
「ニート特有」という点も欠かせない。「あ、ニートがそういうファッションをするのは、これこれこういう理由があるのね」と人々を納得させることが重要なのだ。なんと言っても人は合理性を不合理に求める生き物なのである。ヌートバーがアイブラックを引いている主たる理由はヌートバーがイキりたいだけであることは明らかだが、「光の反射を抑える」という合理性を付与することで、彼がイキりたがっているわけではないというフィクションを人々は受け入れた。仮に無色透明でアイブラックよりも光の反射を抑えられる塗料が開発されたなら、ヌートバーにとっては営業妨害もいいところだろう。彼はアイブラックを書く正当性を失ってしまい、イキれなくなってしまうのだから(もちろんそうなったとき彼は「精神集中のために書く」といった別の説明を用意するわけだが)。
では、ニート特有のファッションとはなにか? 一例を挙げてみよう。まずニートとは金がないがゆえに古着や貰い物を着ることになるわけだが、古着や貰い物はサイズが合わなかったり、好みの服ではなかったりするというデメリットが存在する。普通の人はそれをリメイクする手間をかけるくらいなら新品で理想通りの服を買うわけだが、ニートにはその手間をかけるだけの時間はたっぷりある。なら、リメイクしたパッチワークファッションは「ニート特有」という条件をクリアできそうだ。
間違ってもサイズが合ってないものをそのまま着たり、汚れたりヨレたりしたものを着ることは避けた方がいい。人間の大半は労働価値説を信じている。手間暇がかけられているものは基本的に良いものだと感じるのが人情なのだ。ブランド品が良く見える理由は、他人に手間暇をかけさせていると人が感じるからである。他人に手間暇をかけさせる金のないニートは、自分で手間暇をかければいいのだ。「めんどくさい」と思ったかもしれないが、決して手間暇自体がめんどくさいわけではない。やったことのないことをやるのがめんどくさいのだ。むしろ無心で手間暇をかける時間を、人は愛している。一度やってみれば、案外楽しいかもしれない。楽しくなってきたなら、むしろ人はそれをやらずにはいられなくなるし、自らのプライドを賭けた行為であるように感じ始める。これこそが内側から湧き出るカッコよさへの衝動であろう。他者からの視線をトリガーとして打算的にスタートした営みも、自らの意志で継続するうちに自らの衝動として変換され、真のカッコよさへと昇華されるのだ。このとき、他者からの視線はロケットのブースターのような役割を果たす。それなしでは発射できないが、一度発射してしまえばもう必要なくなるのだ。中途半端なぶりっ子が嫌われて、筋金入りのぶりっ子が愛されるのは、後者が他者の視線からすでに解放されているからなのである。
そして、それはもう自らの情熱だけをエネルギーとした「遊び」と呼べる営みであろう。ファッションという内発的なカッコよさの追求(=アート)自体が「遊びに専念する者」というニートの定義へ接続され「ニート=カッコいい」というニートageへと向かうのである。
さて、こうしたテーマに深入りすると本一冊は必要になるのでこれくらいにしておこう。ここで、読者諸君の疑問に答えていきたい。それは「身なりに気を使い、カッコよさを追求し、カルチャーを生むようなバイタリティあふれる人間はそもそもニートにならないのではないか?」という疑問である。
その心配はもはや過去のものである。戦後の時代であったなら、労働の大半は家を建てたり、モノをつくったり、トラックを運転したりする営みであった。ドロップアウトする人はいたし、長時間労働やパワハラといった問題はあったとはいえ、「他人の役に立てば対価を得られて、家族を養うことができる」というプロセスの構造全体には、常識人の多くはすんなりと納得できた。つまり当時は、能力や意欲のある人は普通に労働していた可能性が高いのである。
一方で現代の労働を取り巻く状況は、全体としてはなにも生み出さない無意味なピンハネ合戦やマーケティング合戦、書類穴埋めと仕事といったブルシット・ジョブとしての側面をますます強めていて、「無意味なことを我慢してやれば、対価を受け取り、あわよくば家族を養うことができる」という不条理な構造を形成している(意味のある労働に就こうにも、それらは低賃金化し、ブラック化しているため、多くの人は避ける傾向にある)。それでも納得する人は依然として多いとはいえ、納得できない人が増えるのは当然の成り行きであると言えよう。事実、就活(それ自体がブルシット化していることは言うまでもない)からドロップアウトする学生も、労働に起因する精神病も、生活保護受給者も増え続けている。要するに、普通の人間ですら労働に嫌気がさす時代なのである。特別に堕落した人間だけがニートになるという状況ではなくなりつつあるわけだ。
僕自身、対人能力も、そのほかの能力も、まったく問題ないどころか、むしろそこらのサラリーマンより優れているニートに何人も出会ってきた。しかも彼らは労働という名の強制を拒否しているだけであって、それ以外ではやたらと活発だったりするのだ(僕は彼らのことをアッパー系ニートと呼んでいる)。これ自体が現代社会に響き渡る警鐘であると言っていい。能力と意欲のある人材が「よっしゃあ、社会のシステムに則ってがんばろか!」と思うことができない社会に、なんの問題もないだなんて口が裂けても言えないだろう。それは社会の方こそが障害を抱えている証拠なのである。
要するに、新しいニートカルチャーの台風の目となるポテンシャルを秘めた伏竜鳳雛が、そこら中に潜んでいると考えられるのだ。では、彼らはどこにいるのか? ニートマガジンがその筆頭候補であることはたしかだ。こんな雑誌をわざわざつくったところで物質的なメリットはなにもないわけだが、それでもやるということは、僕たちは遊びに専念しているのである。とはいえ、いまのところニートマガジンは文章中心であり、思想中心の営みである。思想だけは売るほどあるわけだが、今後はニートによるファッション、アート、ライフスタイルといったビジュアライズしやすいカルチャーの発信に、もっと力を入れてもいいかもしれない。
余談だが、僕の考えはアッパー系ニートによる選民思想に拍車をかける可能性がある。アッパー系ニートは、子ども部屋にこもって日がな一日ネット掲示板で声優を叩き、ペットボトルに排泄するタイプのダウナー系ニートを見下す傾向にある。それはニートが嫌悪してきた自己責任論の再生産であり、僕としては看過できない状況である。とはいえ、大谷翔平のおかげで全国の高校球児の童貞卒業年齢が引きさげられるのと同じように、アッパー系ニートの活躍がダウナー系ニートを含むニート全体の地位向上に貢献するのなら、悪くない話だろう。それに選民思想は、FIREや生活保護、アフィリエイトといった経済的ライフハックにより資本主義社会からいち抜けするタイプの小乗アンチワークを志すニートに顕著な傾向である。大乗アンチワークを志すニートage活動でなら、選民思想に陥るリスクは高くないのではないだろうか(それでも用心しなければならないのは間違いないが)。
さて、ここまでが僕からの提言である。ニートたちはどのように感じるだろうか? 「いやいや、別にニートの社会的地位なんてどうでもいいから、細々とやってればいいんじゃない?」という意見もあるだろう。「俺たちで革命を起こして、労働を撲滅しよう」という意見もあるだろう(あるのか?)。もちろん、やりたくないことをやる必要はない。やりたいことをやればいいのである。ただ、僕としては面白そうな方に進みたい。それだけである。