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ニートマガジン始まりました

ゆるふわ無職

 ニートマガジンが始まった。これは、ニートや働きたくない人たちで記事を寄せ集め、マガジンを作ろうという企画である。今回は記念すべき「冊子版ニートマガジンVol.1」ということで、僕がこのマガジンに期待している3つのことを述べてみたい。

 まず、1つ目は「知識の共有」である。ニートというのは、何をすればいいのか分からない。学校や義務教育では、「ニートの過ごし方」なんて教えてもらえないからだ。いや、そんなものは「当たり前」すぎて明文化する必要がなかっただけなのかもしれない。多くの大人たちはこのように答えるのだろう。「今すぐ就職活動をしろ」と。だがそうではないのだ。僕たちは(少なくとも僕は)、「働かない」、もしくは「なるべく働かない」で生きていきたいのである。焦って就職したとしても、そこに待ち受けているのは、何の役に立っているのか分からない仕事を、週5日8時間定年までこなす、地獄のような生活だ。僕はそれに耐えることができない。「働かないで将来どうするの?」という声も聞こえてきそうだが、僕にとっては逆なのだ。そんな労働生活をしていたら、将来(定年)まで生きていられる気がしない。「正社員になるより、ニートやフリーターをしていた方が長生きできる」という、至ってシンプルな天秤の問題なのである。

 もちろん、ニートマガジンのメンバー全員が僕と全く同じ背景を持っているというわけではないだろう。だが、このメンバーに共通して言えることは、「労働を人生の中心に据えたくない」という気持ちなのではないか。その理由が「ニート生活で怠惰に暮らしたい」なのか、「全国各地を巡る旅人生活がしたい」なのか、「芸術的な営みで自己表現したい」なのか、「宗教活動に身を捧げたい」なのかは分からないが、そこには「普通に働いて生きることに意義を見いだせない」という共通の問題があるはずなのだ。そして、そのようなオルタナティブな生活を志望する人々による記事――日記、エッセイ、活動記録、ノウハウ、ライフハック、思想――そういった記録を集めていけば、「集合知」のようなものが浮かび上がってくることが期待できるのではないか。これは、メンバー同士はもちろん、新たにニートになってしまった人や、ニート生活に苦しんでいる人にとっても、役に立つ記録になるだろう。

 将来も見えず、競争だけが激しくなり、「普通」に求められるハードルが上がり続けるこの社会で、僕たちのような「降りる人」は増え続けていくはずだ。そんな人々にとって、ニートマガジンがある種の「教科書」になってくれることを願っている(もちろん、「教科書」のルールを守る必要なんかない。だが、「教科書」のルールを破るには、「教科書」が必要である。ニートマガジンがそうした別のオリジナリティを生み出すきっかけになるだけでも、僕にとっては喜ばしいことだ)。

 ニートマガジンに期待していることの2つ目は、「働きたくない人たちの交流」である。ニートという存在には、「孤独」が付き物だ。ここで少し、僕自身の話をさせてもらおう。

 改めて自己紹介をすると、僕は大学を2018年に卒業してから、なるべく働かないで生活している者だ。バイトをしている時期もあるが、一昨年(2022)の春から去年(2023)の夏までは、完全なニート生活を送っていた。しかし、それは決して安穏な日々ではなかった。そのとき僕は、おかしくなってしまいそうになっていた。無重力空間に放り投げだされ、真空に身体がバラバラに引き裂かれるような感覚に日常的に襲われていた。それはなぜか。自分がなぜ存在しているのか、そして、目の前に発生している「これ」がなんなのか分からなくなってしまったからである。

 一般的な人々には、自分が存在している根拠がある。例えば、サラリーマンならば「私は〇〇株式会社の一員である」という意識があるだろうし、仕事として「私がやるべきこと」が目の前に与えられているだろう。さらに、結婚していたり、子供がいたりするならば、「夫・父」や「妻・母」としての役割があるはずだ。だが、ニートには、僕には、それがなかった。僕には存在している「必然性」がなかった。

 いや、どんな人間であっても、「必ずそう在らなければならない」というルールや根拠なんて、本当はどこにもないのかもしれない。そんなものはただの思い込みにすぎないのだと。とはいえ、社会の中で生きていれば、そのコミュニティが確固たる存在感を持つように感じてくるものであるし、それに没頭することができれば、俯瞰的な偶然性など忘れることができるものだ(人間は単体では「偶然」なのかもしれないが、人間関係の「しがらみ」に絡み込まれることによって、必然的な実体や役割が存在するように思えてくる)。

 また、別の観点から考えてみると、昔から「隠者」と呼ばれる人々は存在していたが、彼らがその生き方を全うできたのは、「信仰」を持っていたことが大きな理由として挙げられるだろう(なぜ私は存在するのか? それは神がそのように私を創られたからである)。本来、「世の中から隠れて生きる」とは、宗教的な背景があって、初めて成立するものだったのだ。

 社会的役割にせよ、信仰にせよ、僕のようなニヒリストは、この世界に「そうだからそう」と確信できるもの――「とっかかり」とでも呼ぶべき何か――を持っていなかった。掴まるものを見つけられず、確かな足場もなく、宇宙の真空の中に引きずり込まれ、身体がねじ切られそうになる。これが現代の実存ニートの苦痛である。

 なんだか話が壮大でテツガク的になってしまったが、要するに僕が主張したいのは、「『孤独』は人間を根源的に狂わす」ということだ。もちろん、元々僕は1人で過ごすのが好きなタイプである。散歩・読書・インターネット・漫画・ゲーム、いくらでも1人で時間を潰せると思っていた。いわゆる「ニートの才能」があると自負していた。しかし、そんなものはある種の自己欺瞞だったのである。よくネットで見かける書き込みとしてはこんなものがある。「普通の人は働いてないと不安になるらしい。オレはそんなこと全くないからニートの才能があるぜ!」というものだ(僕もやった)。だが、このようなニートは、「ニートキャラ」としてみんなに認めたがられている。ニートとしての必然性や他者からの承認を欲している。これは「働いていないと不安になる普通の人」と何が違うのだろう? また、世の中には「ずっと1人で過ごしていたい」と述べる孤独主義者や、とにかく世の中や人間を嫌悪している厭世主義者が存在する。しかし、彼らだってそういった「孤独な自分」や「世界のクソさ」を他者と共有したがっているではないか。人間は、「人の間」だ。人との繋がり無しに存在することはできない。本当に「孤独」を突き詰めるなら、誰にも知られず山奥で1人、自給自足生活を営むほかないのである。とはいえ、とてもじゃないが、僕はそんな「ホンモノ」にはなれそうにない。今だってこうして、誰かに文章を読んでほしいと思いながら、キーボードを入力しているし、「ニートマガジンの一員」として、「ニートマガジンvol.1」を作ることに意味を見出して、なんとか正気を保っている。

 いやはや申し訳ない。自分語りが長くなってしまった。そういうわけで、僕のように現代的な「孤独」を抱えているニートやフリーター、社会不適合者の方はぜひ一緒に「ニートマガジン」を作りましょう(特に、「馴れ合いは好きじゃない」と思っているそこのあなたに語りかけている)。

 そして、ニートマガジンに期待していること、3つ目は「人々の連帯」である。ニートというのは、バカにされがちな存在だ。ネットの掲示板などでも「さっさと働けゴミニート!」などのディスをよく目にするものである。もちろん、シンプルに傷つくからやめてほしいという理由もあるのだが、僕はこういった「ニートを見下す労働者たち」という日本の現状をどうにかしたいと思っている。

 そもそも、なぜニートは批判されるのか。それは働いていないからである。社会に貢献していないからである。一般的な感性から考えると、そういった「お荷物」が不快で仕方ないということだ。だが、それならば、なぜ「資産運用だけで食っている資本家」や「寝ているだけで土地代が転がり込んでくる地主」には同じことを言わないのだろう? 彼らだって具体的に社会に貢献を行っているわけではない(※エッセンシャルワークを想像してほしい)はずなのに、なぜかそういった人々に対しては、「勝ち組」や「憧れ」といった眼差しが向けられる。結局、「ニート叩き」というのは、日頃から搾取されている労働者たちが「弱いものたちが夕暮れさらに弱いものを叩く」にすぎないのである(この点、ブルジョワ〔資本家階級〕と共に、ルンプロ〔まともに働かない落ちぶれたニートのような人々〕を批判していたマルクスは筋が通っていたものだ)。

 そして、これの何の問題かといえば、ニートを見下すことによって、自分自身がニートになるのを恐れてしまうようになることだ。正直に言おう。僕もニートになるまでは、そのような価値観を内在化していた。わざわざ口に出すことは無くとも、ニートやフリーターになったら、「人生終わり」だと思っていた。とはいえ、こんなことは別に珍しいことでもない。この国では多くの人々が、「ニートになったら人生終了」というイメージを同じように抱えて生きているのではないか。そして、ここで起こる悲劇が「過労死」や「自殺」の問題である。「絶対に正社員で働かなくてはいけない」だとか、「ニートになったら世間に顔向けできない」だとか、そういった(あえてこう言おう!)「くだらない理由」で死んでしまう人が後を絶たない。なぜだ。なぜ死んでしまう。死ぬな。あなたは働くために生まれてきたわけではないはずだ。少なくとも、毎日上司や客に詰められながら、何の意義も感じられない業務を行い、精神が消耗していくだけの労働のために生きることが正しいとは思えない。

 この問題に対して、僕が考えたのは、一般的な人々はニートのことがよく分からないから、「ニートになること」を恐れてしまうのではないかということだ。漠然とした「人生終わり」のイメージ、それが恐ろしいから、自ら命を絶ってしまうことだってありえてしまう。当たり前のことだが、ニートになったからといって、突然モニターの電源が落ちるかのように、「人生が終わる」わけではない。現に僕はこうやって、ふてぶてしくここに生きている。

 さて、話が非常に遠回りしてしまったが、ようやく言いたいことが言えそうだ。つまり、「ニートマガジン」の企画は、現在会社員として苦しんでいる人にとっても、役に立つのではないかと僕は思うのである。マガジンの記事を読めば、「ニートってこんな感じなんだな」とか、「いざニートになったらこうすればいいんだな」とか、そういったことが具体的に分かる。この国の人々は極端すぎるのだ。死ぬまで働くか、働いてないから死ぬか。もっと曖昧な生き方をしている人が増えてもいい。そういう意味で、このニートマガジンが「正社員」「フリーター」「ニート」の境界線を破壊し、少しでも生きやすい社会の実現に貢献してくれることを期待している。

 そして、それはもちろん、ニートマガジンのメンバーや読者が「正社員として就職します!」という道を選んだのならば、それはそれで一向にかまわないということだ。「アイツは裏切り者だ!」とか「フェイクニート野郎め!」などと糾弾することは決してしない。これはきちんと明言しておきたかった。さらに言えば、そこからいつでもニートに戻ってきてもいい。やはり、就職すればしんどいことも多いと思うが、「いざとなったらまたニーマガに戻ればいいか」ぐらいの気持ちで働けばいいのである。

 以上、3点。僕がニートマガジンに期待している「①知識の共有」「②働きたくない人たちの交流」「③人々の連帯」であった。

 それでは、またどこかの記事でお会いしましょう。