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往復書簡 浮雲と小舟 白崎×流木

#1 白﨑楓

 流木さん、こんにちは。

 この度は往復書簡(とまで肩肘張らず、文通!みたいなゆるさでいきましょう)に付き合ってくださりありがとうございます。元気に暮らしていますか?

 私たちはきっと「ニーマガ・実家ニート地元飛び出し・知らん土地行き当たりばったり引っ越し部」……略してニーマガ飛び越し部ですね(もっとフィットする名前があればつけてください)。

 こちらは、実家ニートをやめて縁もゆかりもない土地に引っ越してから、1年と1ヶ月が経ちました。1年前に見つけた写真撮影のアルバイトは、人間関係の居心地が悪くあと1ヶ月我慢して退職しようとしているところです。色々気にしすぎてしまう人間にとっては、たとえアルバイトといえども、悪口や仲間外れで結束力を高めようとする人たちがはびこる職場では長く働くことは難しいですね。

 相変わらず、ニートの頃とおなじく本を読んだり映画を見たり散歩をしながら暮らしています。この前県境まで4時間かけてお散歩したときに通った橋の上から眺めた一級河川は、だだっ広い水面がどこまでも広がり、地元にいた頃に慣れ親しんだ寂寥の大海を見ているようで心が落ち着きました。

 流木さんはこのごろ、暮らしていた地元のことを思い出すことはありますか?

 私はしょっちゅうです。もうあの場所へ戻りたくはありませんが、こちらでできた友だちに「地元のごはんが食べたい、海が見たい、街をあるきたい」と管を巻く自分を見つけて驚きます。いまだに「ここの人間」ふるまいはできません。かりに、こちらの土地に住まう人間と結婚でもすればその意識は変わるのでしょうか?

 街ですれ違う人たち、袖振りあう多少の縁をもつ人たちは皆んな「ここの人間」という顔をしながら労働をしたりビールを飲んだりしているようです。

 たまに地元に暮らしている「捨ててきた」家族たちのことを思い出して、うまくやれなかった自責の念に駆られると共に、「せめて幸せに暮らしていてくれ」と酒を飲む夜を過ごしています。自分ばかりが束縛から離れて幸せに暮らしていて申し訳ないな、と(もちろん、そんなに深刻なものではありません。眠れない夜にたまに無責任に考えるだけです)。

 ともかく、私はもうしばらくここで暮らしてみるつもりです。

 流木さんは「終の住処」は見つかりそうですか?それとも、そんないいものは見つけようとするのが執着の元なんですかね?

 空っ風が冷たい時期ですね。お体に気をつけてお過ごしください。

#2 流木

 白﨑さん、こんばんは。

 こちらはなんとか元気にやっています。

 そうですね、「ニーマガ漂泊部」なんてどうでしょう(洗濯?)。

 もう1年以上経っていたんですね。こちらは1年半で、そろそろ本格的に次の住処を探そうか、という段階です。振り返れば人間よりも野菜に関わっている時間のほうが長かったように思います。

 働くだけでも死ぬほど面倒なのに、そこで人間の嫌なところを見せられるなんて何かの罰ゲームでも受けてるみたいです。人間ってわけわかんなくて、お互いうっすらそのことを理解してるはずなのに、なんでああも自分達が正しさの側に居ると盲信できるのでしょうね。それが社会動物である所以でもあるのかもしれませんが。

 どこか居心地の良い場所が見つかりますように。

 4時間も散歩したんですか。書いてる感じだと片道っぽいですが、大変じゃなかったですか。知り合いのニートたちはたくさん歩いたり自転車に乗る人ばかりなので、直接会ったことはないですが下半身がそれはもうはちゃめちゃに発達してるんじゃないかと恐れ慄いています。

 私は河川ではなく海を見ることのほうが多いのですが、確かに視界いっぱいの水を見ていると、なんだか嬉しいと寂しいの中間みたいな、泣きたいような笑いたいような、不思議な気持ちになります。そういえば、白﨑さんの知る日本海を私は一度も見たことがありません。星がよく見えるのでしょうか。今度会った時は写真などあれば見せてくれると嬉しいです。

 「ふるさとは遠きにありて思うもの、そして悲しくうたふもの」という詩句にあるように、故郷のことが頭から離れたことはありません。そこに戻ることはなくても思い出は心身にどこまでもついてくるものですから、新しい場所に馴染もうがその土地の人と結婚しようがそれが薄れることはあっても無くなることはないのではないかと思います。もちろん、時間をかければ自然と地元の人の〝ような〟意識は染み込んでくるのでしょうけれど。

 程度の差こそあれ、ニートの多くは家族と微妙な距離感にありますからね。「血は繋がっていても究極的には他人」というやや突き放した考えがあっても、たまに思い出してはあの時の言葉と選択は果たして正しかったのだろうか、この先帰る場所もないままうまくやれるだろうか、猫は元気だろうか、と考えてしまいます。でもこうなってしまった以上、我々にできるのは白﨑さんみたいに酒でも飲んで遠くから祈ることだけです。自分がいれば他人の人生をなんとかできるとも思いませんし、それは傲慢というものでしょうから(自戒を込めて)。

 ずっと考えていたのですが、もし理想の住処を見つけても、そこで終わりじゃないんですよね(当たり前)。なんとなく小説や漫画の幸福なラストページみたいに想像してしまってたんですけど、現実の人生は死ぬまで生きなきゃなりません。何だって起こり得ます。環境も心象も変わっていくでしょう。全てが無常であるとすれば、「ここが終の住処だ!」と断言できるような場所なんて存在しないのかもしれません。ありもしない「ここではないどこか」を切望しながらあちこち彷徨い続けるのがニーマガ漂泊部(or飛び越し部)という因果な連中なのかも。でもやっぱりそれも人間っぽいなぁなんて。

 白﨑さんには理想の場所、みたいなものはありますか?

 外に出るのも億劫な寒さでニートに拍車がかかります。白﨑さんもご自愛ください。

#3 白﨑楓

 流木さん、こんにちは。

 こちらでは雪が積もって大はしゃぎしています。以前正社員で勤めていたときならば、大雪が積もると交通網が麻痺して定時に間に合わなくなるので朝から憂鬱な気持ちになっていたところでした。自然現象にイライラしなくなるのは気まま暮らしのいいところですね。穏やかな気持ちで日々暮らしていきたいものです。

 「ニーマガ漂泊部」!いいですねえ、気に入りました。漂泊部!流木さんのネーミングセンスが大好きです。noteのタイトルも毎回素敵でふふふと思っています。ぜひね、この文章を読んでいるみなさんも入部してほしいですね、来たれニーマガ漂泊部。

 ということでいつもnote楽しく拝読してます。農業という営みが流木さんにしっくり嵌っているようで、羨ましく思います。最近は野菜も米も高くて高くて。自分が食べるものくらい自分の力で育てられたらこんなに幸いなことはないと高騰した白菜の棚の前で逡巡しています。いいかげん重い腰を上げてベランダ家庭菜園でも始めてみようかと思います。

 ニート的生き方を選ぶような人間は善かれ悪しかれ得意なことと苦手なことがきっぱり分かれていて、人間としてピーキーな印象を受けます。私は苦手な人間が話す同じ空間で(いちど「この人のことは苦手だ」と意識してしまうともうダメですね)、我関せず黙々と作業をする、みたいなことに過度のストレスを受けるようです。考えすぎてしまう。悪癖です。苦手なことからはさっさと逃げたほうがいいですね、何度再確認してもハッと気づく類の真理です。流木さんは自分の得意なことと苦手なことについて考えたことはありますか?

 漂泊部・部長の流木さんも「ふるさと」に対して割り切れない思いを抱いていることがわかって、どこかほっとしています。もしもパラレルワールド的な世界線を仮定するとしたら、きっと地元で暮らしている自分は、いまだに家族やふるさとのことを呪いながら、毎日じくじくと暮らしているのではないかと思うのです。呪うくらいなら祈るほうがいい。非・ふるさと性の水辺にぼんやりと佇み、罪悪感を慈しみながら生きていると、「嬉しいと寂しいの中間」みたいな気持ちになりますね、たしかに。

 理想の住処……!いいテーマですね。これ、ニーマガの皆さんにも聞いてみたいですね。バラエティに富んだ回答が得られそう。

 とりあえず徒歩圏内に図書館、これはマストです。できればあまり人で賑やかではない、書き物ができるデスクつきの図書館だとありがたいなあ。それから私は筋金入りのキッチン・ドランカーで、お酒を飲むと1人では消費できない量のカレーやスープやキッシュを作ってしまうので、お裾分けできる他人が近くに居てくれると嬉しいですね。加えて、運転があまり得意ではないので、ある程度徒歩や自転車でなんとか生活が回っていく土地だと尚いい。こうやって列挙してみると、今住んでいるところは割と自分が理想とするような住処なのかもしれません。

 さて、ここからどうやって「漂泊欲」が湧いてくるのか、自分自身に対して思考実験をしているような気持ちになってきました。

 流木さんが1年半かけて暮らした土地から去る決意をしたのは、どのようなきっかけがあったのでしょうか?

 なんだか話したいことが多くて、のんびりペースかつみっちり文章量の往復書簡になってしまって申し訳ないです。もうすぐ仕事を辞められるので、以降はちゃんと時間が取れるようになると思います。ご容赦くださいませ。

#4 流木

 白﨑さん、おはようございます。

 雪ですか。そういえばもうずいぶん雪を見ていません。最近妙に金沢あたりを散策したいと思うのは雪が見たいからなのかも。

 雪でも嵐でも仕事をしなければならないって、よく考えたら変ですね。ヒトのプリミティブな部分が否定されてしまっているような。そうまでして維持しなければならないほど今の社会は素晴らしいのでしょうか。

 とりあえずニーマガ漂泊部(暫定)ということで。モットーは来るもの拒まず去るもの追わず、です。何かの偶然で同じ街に暮らすことになったら、その時は楽しくやりましょう。お待ちしてます。

 苦手なことは枚挙に暇がありませんが、得意なことは本当になにもありません。強いて言えば、「なにもしない」ことや独りでいることに人より長く耐えられる、くらいでしょうか。だから今の、定年後の老人みたいな生活でもやっていけてるのかもしれないです。

 好き嫌いや得意不得意の傾向ってほとんど自分ではどうしようもないので、世間が無責任だと言おうが逃げることも折り合いをつける方法のひとつですね。シロクマが砂漠で生きられないのと一緒です。世界が自分のためにあるわけではないと知り、社会が大層大事に抱えている規範や道徳が実は曖昧でしょうもないものだと思えるようになったら、ニート的資質を持つ人も生きやすくなるのではと思います。もちろんそう上手く気持ちを整理できるものでもないのですが。

 でも私がここにいるのも、時代がこんな風なのも、それに合わせられないのも、突き詰めれば本当に「たまたま」なのです。白﨑さんは、ニート的な生き方を送る上で大切にしている考えはありますか?

 白﨑さんの近くで暮らしたら結構な頻度で美味しい料理にありつけそうですね。

 ニーマガが発足してもう随分経ちますが、メンバーの暮らしってnoteで書かれている部分以外ではよく分かってないんですよね。そもそもネットに私生活の様子を流すのもそれなりにリスキーではありますが、それぞれどんな生活を望んでいるのか聞いてみたい。

 1年半経ち、この場所にも知り合いと呼べる人や行きつけのお店、居心地のいい図書館、そして幸福な記憶もいくつかできました。

 バイト先の農場で皆んなが夏のサツマイモ収穫に関する話をしているのを聞くと、そこにいないかもしれない自分を想像して少し寂しくなります。

 さてここを離れる理由ですが、まず、契約している賃貸の更新タイミングが迫っている、という現実的で面白くもない理由があります。

 次に、2年以上暮らせば間違いなく湧いてしまうであろう愛着が、漂泊欲を鈍らせてしまうことを危惧してのことです。ただでさえ面倒くさがりなのに、ここに残る理由が固まってしまったらもう動けないような気がします。

 あとは、これが1番大きな理由ですが、個人的な答え合わせをしたいのです。実家を出た時、すぐに住みたかった四国ないし中国地方の瀬戸内海沿いのどこかに飛べば良かったのに、理想と現実が違っていたらどうしようと怖くなって一旦クッションを挟んでしまいました。色々あってナーバスになっていたのだと思います。気持ちの落ち着いた今、なるべく理想に近いところに住んで、その時自分が何を感じるのか、それでもやっぱりどこかへ行きたいと思うのか、一度しっかり向き合って改めて「漂うように生きること」について考えたいのです。

 とりあえず今回はこんなとこで(書きすぎました)。肉体労働のせいで毎日へとへとで返事が遅くなってしまいました。悪いのは私ではなく労働です。

#5 白﨑楓

 流木さん、こんにちは。

 悪いのは労働であり、人ではない。これはまさしくそうですね。ついに虚無バイトを辞めてからはずっと、このことについて考えています。労働という状況がもたらす格差・欲求・防衛が他者の像を我慢ならないものまで歪め、貶める。お金を稼ぐためだけに、魂の大事な部分を切り売りしているような虚無感に駆られます。

 職場に限らずイヤな人たちにされたイヤなことをいつまでもずっと覚えているタチなのですが(これは本当に損な悪癖です)、距離を置いて考えればあの人たちも別に筋金入りの悪人ではないな、きっと愛すべき余地があったな、私にはまだできることがあったはずなのに、どうか幸せに生きてくれよ……とやさしい(かつ、もうどうしようもない類の罪悪感が織り混じった)気持ちになります。

 私のニート・マインドにおいて重要なのは実のところこれで、私は、「できればすべての人間を愛したい」んですよね。すこし潔癖的に良い言い方をしすぎなのでやや冗長に訂正すると、「あいつがキライだという感情はエネルギーを使うので、これを避けるためにどんな人であれキライにならないくらいの距離感を保ちたい」。ある人のことが決定的にキライになると、心のシャッターが降りる音がする――という思考はある程度人口に膾炙しているものだと思うのですが、この「心のシャッターが降りた状態」ってきっと防衛本能なんですよね。同族嫌悪か、はたまた耐え難い心傷を思い出すとか。私の狭い心象世界は、きっと他の人よりもシャッターが降りやすい限界集落です。

 自我を賭けた大仕事ならともかく、雑務ではした賃金を稼ぐ小労働でこんなに消耗をするのは損です。つまるところ、私の心がふにゃんふにゃんなのがすべての原因ではあるのですが、世界にシャッターを降ろさないためには、ちょっとだけ社会とは距離を取っていたい。私は退廃したシャッター街で暮らしていくことはできない生き物みたいです。あとは道すがらにブランコがあった時に、しばし乗っかって揺られてみるくらいには時間と心に余裕が持てていると尚良いですね。海沿いブランコ揺られシロウサギになりたい。

 ニーマガvol.3のテーマ「救済」にも係ることなのですが、私の「救済」感はここら辺にある気がします。他者について執着せず、程よい距離感を保ったまま、万人を愛せている状態。陽だまりの中で、なんだかわからないけど誰かが作ったゆらゆら遊具に揺られながら、やや罪悪感をもちつつも世界のことを許せているとき、私は世界にも許されている、救済されている――と感じます。

 「救済」というと(あまり宗教に馴染みのない私にとっては)たいそうでっかいプロジェクトみたいで恐れ慄いてしまうのですが、恥ずかしながらこの語彙の手触りとしてはこんなところです。流木さんは「救済」という言葉について何か思うところはありますか?

 エーリッヒ・フロムが「愛するということ」のなかで、現代においてとても難しく、かつ、「ひとを愛する」という本著のテーマを完遂するために必要なことは「本も読まず、ラジオも聞かず、タバコも吸わず、酒も飲まずに、ひとりでじっとしていられるようになることだ」(P.167)と書いています。今であれば確実にここに「スマホも触らずに」が追加されることでしょう。

 流木さんの「なにもしないことができる」「独りでいることに耐えられる」ということは、まさしくこのような強さであると思います。その能力を持っている人間はおそらくあまりいませんし、後天的に身につけることは極めて難しそうです(なんせフロムのお墨付きですし)。少なくとも、私が今まで出会った人の中にはあまりいないタイプです。

 流木さんの次の漂流がよいものになりますように。もしよければ旅立つ前に、流木さんの馴染みの店、さみしい海や何度も通った道を見てみたいものです。

 こんな機会は滅多にないですし、時間と紙面の許す限りたっぷりお話ししましょう。「たまたま」そうなっただけです、ということで、紙面を編集するであろうゆるふわさんには容赦していただきましょう(ごめんなさい)。

#6 流木

 白﨑さん、こんばんは。

 世の中にはさまざまな人がいて、どれだけ上手く立ち回っていても、関わるべきでない相手というのは必ず現れます(もちろん、誰かにとっての自分がそうである可能性もあります)。そうした人と接触してしまえば、不快な思いをするのは避けられませんし、運が悪ければ一生残る傷を負うこともあります。

 それは災害のように理不尽なものですが、運良く(?)私たちには、出来事の意味を見出したり、どこに意識を向けるかを選んだりする知性があります。不快な相手に対して負の感情を抱くのは、ある種のデフォルト反応ですが、白﨑さんは距離を取り、視点を変えることで「できれば愛したい」を選んだのですね。その根底に諦念があったとしても、恨むよりも愛するほうが勇気と覚悟を要し、結果としてはるかに建設的だと思います。

 とはいえ、すべてを受け入れる必要はありません。シャッターを下ろしたり、覗き穴を開けたり、雑踏を聞き流したりしながら、折り合いをつけていかなければ、生きづらいのが社会というものです。ただ、シャッターの内と外を完全に切り離さず、隙間から差し込む光を感じ、いつか訪れる快いノックの音を聞き逃さないこと。それさえ覚えていれば、それで十分なのだと思います。

 抽象的な表現ばかりになってしまいましたね……。

 それにしても、「海沿いブランコ揺られシロウサギ」とは。かわいい。

 さて、「救済」という言葉にはどうしても宗教的な響きがありますね。苦しむ人を助けること、罪や罰からの解放。ニート的には「働かなくても生きていける世界」が救済でしょうか。

 救済とは、言葉や人、物、神秘的な体験など、さまざまな形をとるものですが、白﨑さんは「ある状況」の中に救済を見出したのですね。暖かくてノスタルジックな状況の中に、なぜか罪悪感が居座る。その理由は、おそらく「許されていることを実感するため」なのではないかと思いました。

 自分にとっての救済とは何か。改めて考えると、とても難しい問題です。人や物にそれを求めても、それは一時的な痛み止めにしかならない気がします。

 個人的には、「言葉と知性と行為によって世界を作り変えること」が、私にとっての救済に近いように思います。

 生きることは、多かれ少なかれ誰にとっても苦しいものです。最初の話に戻りますが、この世界は理不尽かつ不条理であり、自分の力でコントロールできることはほとんどありません。私たちは、大渦の中に投げ込まれた糸屑のようなものです。この外界においては、ただ呑まれ流されるほかないでしょう。

 そんな中で変えられるのは、「私が見る世界」です。宗教家があらゆる苦痛を神の試練に変換したように、物の見方ひとつで既存の価値は反転します。言葉と知性で観念を編み、行為によって世界に問い続ける。そうしなければ、現実はおそらく苦しいままです。もちろん、痛いものは痛いし、苦しいものは苦しいままかもしれませんが、それでも意識の向け方を選ぶ自由があり、そこから思考を発展させることができるなら、それは救済につながると信じています。

 気の遠くなるような、地道でタフな作業です。でも、誰にでもできる。

 ちょっとカッコつけすぎましたね、恥ずかしい……。

 ニーマガの締切が近づいてきましたね。ゆっくりしすぎたかもしれません。これが最後の手紙になるかどうかわかりませんが、分量的には大丈夫そうでしょうか?

 白﨑さんとゆるふわさんに全投げする形になってしまい、申し訳ないです。

 でも、ずっと誰かに言いたかったことや、考えるべきだったことに向き合う機会を得られて、多くの発見がありました。こうした場を設けてくださり、お誘いいただけたこと、本当に感謝しています。

#7 白﨑楓

 流木さん、こんにちは。

 公共料金の支払いがてら散歩をしつつ本文をしたためています。走り回ってはしゃぐ羽目になった雪もすっかり溶けてしまい、世界は伸びる日照時間によって暖かみを増し、いつの間にか梅の蕾がふくらみ、本往復書簡も終わりのときが訪れました。

 普段note等でしか思想・生活を垣間見ることのないニート友だちと、こうして腰を据えてじっくり話し合うというのはレアでいいですね。木製ベンチに腰掛けて水辺でも眺めながらのんびりとおしゃべりしていた気分です。

 ラディカルでキャッチーな結論を出したり、物事に名前をつけて定義したり、既存の概念と整頓したりする行為はこの世の中には必要ですが、わからないことを「わからないものだね」と宙吊りのままにしておく――誰でもできるけど、途方もなくタフさが要求される作業に知性を賭けてみる――という会話の仕方も決してそれに劣らずまた重要で、すべての「わかりやすさ」が加速していく現代で蔑ろにされている行為で、のんびりと寝転ぶニート・マインドの持ち主くらいはそういう地道な方法を寵愛してやっても良いじゃないかと思いました。

 往復書簡外にてタイトルの提案をくださりありがとうございました。ねえみなさん、やっぱり流木さんのネーミング・センスってすごく良いですよね。浮雲と小舟。ニーマガ漂泊部にぴったりのフラフラよるべなさじゃないですか。

 浮雲。環境に任せてその形と性質を変えるもの。対象者とは付かず離れずの距離で、自然界の気まぐれによって無くなったり雨を降らしたりしながら、ときたま観測者に鏡像(または、もっとロールシャッハ・テストみたいな夢分析)として眺められるもの。そのようなものになりたいもんです。

 小舟という言葉からは、まさに「言葉と知性で観念を編み、行為によって世界に問い続け」ている人間が手入れをしている姿が目に浮かびます。理性と肉体が伴わない小舟はただの投機物です。これから新たな陸に向かって漕ぎ出したり、波の流れに身を任せてみたり、もしかしたらでっかいカジキやサメと格闘したりしながらも、答え合わせの海岸でしばらくのんびり漂泊したりするのでしょうか?

 この度は私のノックの音に応答してくれてありがとうございました。少しお行儀が悪いかもしれませんが、散歩中に家屋の扉や窓の奥を眺めるともなく眺めるのって楽しいですよね。陽がよく当たるガラス戸の奥にふかふかのシーズーがお昼寝をしていたり、壊れかけた木造建築の隙間から水色プラスチックの洗面器が覗いていたりして、それがどことなく寂しくそれでいて愛おしく、とてもうれしい。あたたかい気持ちで曇りガラスの奥に年季の入ったアルミ鍋がうっすら見える台所を眺めていたら「殺すぞ」と手書きで書かれた紙がこちら向きに貼られていてギョッとしました。とても怖かったです。こんなのまですべて愛おしいなと感傷していたら気が狂ってしまいますよ。もうあの道はよっぽどじゃない限り通りません、しばらくは。

 なんにせよ、1秒後になにが起こるかなんて一切わからないものですね。理不尽で不条理で、コントロールできないからこそ世界は豊かです。最も余裕ぶっていられるのは、複層的なものの見方ができるくらいには心に余裕のあるときだけですが、こうして文章を打っていたり誰かと対話をしていたりすると、膨れ上がる自我から適度な距離を取ることができます。こちらこそ貴重な機会をくださってありがとうございました。

 さて、私はまた流木さんのいち読者へと戻ります。ですが、――私は決してこういう場で社交辞令を言うような人間ではないという前置きをしつつ――もしまた機会があればこうしてお話しできたらとても嬉しいです。

 流木さんおよび読者のみなさんの漂泊生活に幸あれ。みなさん、よいニーティング・ライフを!