死、俯瞰的冷笑、ニート。
ろっさん
はじめまして。ろっさんです。
普段はX(旧ツイッター)で画像ばかり投稿している無職だ。ニートマガジンメンバーに参加しているものの、生来のなまけ癖でいまだ2つしか文章を投稿できていない。ついでに言えば、この文章も実はリゾートバイト先の寮で書いている。厳密にはフリーター3割+無職7割といった奴である。
新卒で入った会社を退職したのは3年前。無職になってからは再就職する気も一切起きず、趣味でやっている自転車旅で山奥ニート系シェアハウス巡りをしていた。2年前からはある山奥に移住し、山奥ニート的生活を送っている。キャンプ場で住み込みながら週に数回だけバイトし、基本的にゲームやインターネットをしてだらだら過ごしている。いちおう山奥にいるのだからと狩猟免許を取って鹿を獲ったり、野草や虫や蛇を食べたりして遊ぶこともある。冬季の山奥は往々にして寒く、バイト先のキャンプ場も休業してしまうため、一度やってみたかったリゾートバイトなるものを始めてみた。そうして先述したとおり現在は暖房使い放題の寮でこの原稿を仕上げているというわけだ。
この現代社会、ニートであることは落伍者のレッテルを張られるも同義だ(フリーターや季節労働者でさえも)。しかしふと自分を思い返してみれば、わりと満足して生活している自覚がある。肯定的なニート野郎だ。なぜ自分はこうも人生観が楽観的なのか? なぜニートのくせに行動力だけはあるのか? 今回はさして楽しくもない自分語りを多用してこの疑問を分析してみようと思う。
この文章がニート(或いはニートに準ずる人たち)のメンタルの支えになれば幸いである。
ちなみに、なぜ「楽しくもない自分語り」などと前置きしたかというと、今回の話は死をメインに取り上げるからだ。人生をテーマにして考える際、同時に死について考えることもまた避けられない。死とは人生にとって絶対的なゴールだからだ。人は誰しもが幼少期のころ物心つく際に死という概念を知る。はじめ恐怖におののくものの、次第に忘れていくものだ。そうして多くの社会人たちは死など頭の隅に追いやり日常を忙しく過ごす。だが思うに自分は、この死という概念に長いこと囚われて生きている気がするのだ。
中学2年生の秋だったろうか。授業中に気分が悪くなって保健室で休んだことがある。しかし回復せず、しまいには嘔吐を繰り返した。尋常ではない様子を心配してくれた保険医の先生が病院に取り次いでくださって、検査を受けることとなった。
診断結果は原因不明の脳出血。幸い軽度であるらしく、手術の必要はないとのことだった。しかしCTRで投射された脳みその断面図は、後頭部にある出血部分のほかにも不穏な影を映していた。なにやらピンポン玉程度の白い影が左脳前方に表れている。診断名は先天性のくも膜下嚢胞。髄液の詰まった袋が脳の左半分を窮屈に押し込めていたのである。
これも無症状のため大事には至らなかったものの、医師からはこの先一生涯の柔道とラグビーを禁止されることになった。なんにせよ、少年期に脳疾患を患った経験は、人生とはあっけなく幕が閉じるもの。そんな死に関する事実を受け入れるに十分だった。
脳と言えば大学では心理学を専攻していた。就活に有利な学科を選ぶ周りの空気に反抗して、自分が興味を持てるものを選んだつもりだった。心理学と言えばメンタリズムのようなエンタメ性を想像しがちだが、1年生がまず勉強することになる基礎心理学はお堅いものだった。脳の基礎知識やデータ統計学を必修科目とし、文系を謳いつつもほぼ理系のような気質だった。
その心理学の中でも印象に残っているのが認知心理学だ。認知心理学とは、知ること(知識を獲得すること)、認識することにかかわる心理的過程を研究する学問だ。このジャンルを担当する教授の台詞が今も頭にこびりついている。
「魂なんて存在しません。私たち心理学教授はみな心身一元論者ですよ。」
よくフィクション作品で見受けられる表現に、肉体にエクトプラズマみたいな魂が宿っていることで生命活動がなされているような表現がある。これは心身二元論といい、現代では多くの人が信じているようだ。しかし心身一元論とは、肉体(脳)と魂は1つであり分けられないものと主張している。魂など脳内の電気信号に過ぎないのだ。
なんだか夢のない話になってきたが、心という不可解なものを科学的に解明しようという心理学という学問は自分にとって良いものだったと思う。なにがしかのストレス、感情の起伏をコントロールしやすくなったような気がする。脳内で分泌されるホルモンによって調子が左右されることを自覚できるなら、精神でさえも筋肉痛のような肉体的不調と同等のノリで立ち向かうことが可能だからだ。たとえ気分が落ち込んでも「脳とかいうやつがホルモンを分泌しているんだな。しょうがない臓器だ」と俯瞰的になれる。幼稚な仮説だが、ニートであることに落ち込むのはあなたが悪いのではなく、脳が勝手に不安がっているだけかもしれない。
ニーマガを立ち上げたゆるふわ無職氏は、かつて「ニートこそリアルな死に近づく存在」と主張した。その通りだと思う。現代で職がないことは、餓死という可能性に直面することを指す。
とりわけ死という概念には敏感だった。ただでさえ中学生に死ぬかもしれない経験をし、大学では心身一元論に共感するような人間だ。そんなおり、大学2年生の終わりに事件が起きた。
よく知る仲の人が、ひとり自殺した。
彼はベランダの手すりに皮ベルトを通し、座り込むようにして首を吊ったそうだ。仮面浪人をしながら志望校を目指す勉強の末、不安に苛まれた結末である。遺書などは見つからなかったが、食事を共にした際に常に手が震えていたこと、口数が少なくなりよく寝込んでいたことを覚えている。
参列した葬式では、彼の納められた棺桶に号泣する母親が縋り付いていた。
葬式という一連の儀式は、取り残された人たちの為にある。そんな説をどこかで聞いた。それもそうだろう、生命活動が停止した時点で脳細胞も完全に破壊されている。本人は葬式が挙げられていることなど知る由もない。なにも認知することのない死体がそこにあるだけだ。
その頃からか、あの世という概念をより強く信じなくなった。両目を抉った人にものがみえるだろうか? 目が無事でも、視神経あるいは脳が機能しなくなれば失明したのも同然だろう。心理学に傾倒した自分にとって、感覚器官が消失(死亡)しているのに、なにか(あの世)を知覚することなどありえないのだ。
そう、だから自殺は不完全なのだ。
死んでいるのに、存在は消滅したのに、どうやって「ああ、これで楽になった」と確認できるのだろうか。
死という概念について思考する以上、自分が死ぬこともよく想像する。一番可能性が高いのは事故死と病死、気にしてもしょうがない二大巨塔である。次点で自身に起こりうる死に方は孤独死だろう。誰にも看取られず畳のシミになる孤独死は世間的にも一番忌み嫌われている。これを避けたいがために婚活をする人もいるらしい。だが待ってほしい、次第に腐乱して畳のシミになることも、他人にパソコンを覗かれるのも本来知りようがない。なぜなら死んだ時点で自分は世界に存在していないからだ。言い換えれば、自分が世界を知覚できるのは認知機能が正常に作動している間だけ。死ねば世界も終わるのである。
年若くして自殺した彼、日々老いていく両親、痴呆症の末に何もわからなくなっていった祖父、膵臓の癌が転移して手遅れだった祖母……身近に見てきた人生の行く末は自身の予習になる。少なくとも、長生きしてでも苦痛にまみれた余生に憧れはなくなった。人生百年時代なんてどうでもいい。そもそも長生きできない覚悟は済んでいる。ただでさえ脳疾患があり親族の多くは癌で亡くなっているのだ。絶望をとことん煮詰め世を呪ったところで何も起きはしなかった。結局は時間の浪費だけ。他責的思考は無駄だったからやめた。とにかくわかることは、いま五体満足で比較的若い肉体を持っていること、その事実だけだ。
だがそんな期間も残りわずかになった。そもそも期待しないスタンスなので、自転車で遠方まで出かけられる体力が何年続くかわかったものではない。大仰に言えば、全盛期だった18~20歳の自分は死んだ。そして今も「かろうじて若い自分」は日々が過ぎるごとに「死に続けている」。昨日より若い今日の自分などいない。だからこそ退職願を叩きつけるのに何の抵抗もなかった。健康でいられる日々が嫌いな労働で塗りつぶされるだけで終わっていいはずがない。無駄すぎる。ある意味、生き急いでいるのだ。
3年間の社畜時代、通勤中に読み漁った哲学書や冒険家のエッセイ本を通して得た結論はシンプルだった。
死についての思考が頭にある状態で人生の割り振り方を模索してみれば、職の有無などガン無視して残る人生を全力で有効活用するほうが合理的ではないか。のこり1回しかない夏休みの中を過ごすなら、宿題など踏み倒してナンボである。
この考えが楽観的な合理主義につながってゆく。ニートでいるとやることがない。ひたすら続く平坦な日々。無限かと思われる壁打ち。しかし自問自答し思い悩んでもネガティブな時間を過ごすだけ。なんかもったいない。そうだ、せっかく仕事してないなら税金をどれだけ免除できるか試してみよう、ニート生活を続けられる多種多様なライフスタイルをこの目で見てみよう……そんなふうになり、全国に散らばる山奥ニート系列のシェアハウスを自転車旅で巡り、Bライフを実践する知人に会いに行った。
しかしある程度思い通りに生きている自覚はあるものの、それでも懸念すべきことは尽きない。そのひとつに「いずれ死んで全て無になるのに、目前の出来事やそれに対する自身の感情などいったいなんになるのだろう」といった思考がある(勝手に名を付けて「俯瞰的冷笑」とさせていただく)。どんな時でも湧きかねない強敵である。しかしながら、もし今から1時間、腕に張り付けられた電極から電気ショックを受けるか・受けないか、自由に選べるなら前者を選ぶ人間は普通いないだろう。勝手に湧いてくる感情であっても、それを対処するかどうかは自由である。少なくとも残された時間が「どうせ最後は死ぬのに何を必死になっているんだ」でいっぱいになることは避けたいではないか。
やはり何かに打ち込むことは重要なのだろう。少なくとも自転車野宿旅など好きなことを全力でやっている間は、俯瞰的冷笑をする自分が顔を出す余地はない。
高校時代、尊敬する現国教師が難題に対してあっけらかんと言い放った台詞に思わず膝を打った思い出がある。
「人はなぜ生きるか。そんなの簡単ですよ。幸せになるためです。」
おいしい料理を食べようとすること、きれいな景色を求め出かけること、誰かと話すこと……人間が行う多種多様で複雑な動作。それらは突き詰めてしまえば結局、全て幸福を得ることが終着点だ。合理的に考えれば、人は死ぬその直前までにどれだけ満足できたかが重要なのだ。
だからなるべくシンプルに結論付けた。「俯瞰的冷笑は幸福に繋がらないから発生しづらくなるように動こう。」これだけだ。
本当に難しいが虚無的思考の余地は無くすべきなのだ。
そして、仮にニートは1日を無為に過ごしても罪悪感を覚える必要はない。むしろ嫌いな作業につぶされなかっただけその日は幸福だ。最後に死ぬ日が来たとしても(自殺以外で)、己の人生を己の好きな方向へハンドルが切れていた自覚があったのなら悔いはない。
高校時代といえばこんな経験もあった。地学の授業で地球の成り立ちについて説明する教材ビデオを見た。その時の記憶が今も鮮明に残っている。地球という天体が持つ膨大な歴史時間軸では、我々一人一人の人間が生きる時間はたったの3秒にしか値しないという。3秒……3秒である! その事実に愕然としてからというもの(人生最初の俯瞰的冷笑である)、何かしら感動的な場面に居合わせたとしても3秒というワードが脳裏をよぎるようになった。社畜生活に絶望している人生も3秒以内、往生した祖父の人生でも3秒だ。膨大な時間軸のなか、その一瞬の内にしか存在できない我々はいったい何にあたふたしているのだろうか?
だが待ってほしい。そんな3秒の瞬間もまた何度考えても奇跡的なものだ。まず天体に生命体が誕生したこと、知性あるホモ・サピエンスとして生まれたこと、生まれた座標地点と時代背景が比較的大当たりの部類にあること……ある意味超々SSRガチャを引き当てている。世界があること、我々が我々として存在する神秘性。これらは未だ解明されず、下手に語るぐらいなら沈黙しておいた方が好ましいまである。しかしそんな哲学的な考えを抜きにしても、我々が「いま」を生きていることは不変の事実だ。しかも時間制限付きで、だ。せっかくだからこの3秒間を好きに遊んでやろうじゃないか。
そろそろまとめに入ろう。私が世間一般では揶揄されがちなニートであることに関し、楽観的であること、なんか行動力があることはお分かりいただけただろう。きっと最初は中学~高校生のころからだ。なにがしかの不幸や不運、やるせなさに遭遇するたび、「死」や「俯瞰的冷笑」といったバカでかいテーマを対にして天秤にかけた。そうして大抵のことをちっぽけにしてきのだ。
あとニートが言うなよと思うだろうが、たまに(本当にたまに!)なら労働も悪くない。毎日大好きな料理だけ食べていると飽きてきて価値が落ちるのと同じ、ずっとニートだと自由時間のありがたみが薄れてくる。労働なんてものはビールをうまくするための運動、外気浴を気持ちよくするためのサウナと水風呂みたいなものだ。朝5時から終電が出る夜23時までオフィスにいたころに比べれば、夕方17時に必ず終わり、かつ自由にシフトを決められるゆるいバイトなど程よいアクセントみたいなものである。
結局そんな感じで、ニーマガに籍を置きつつも半フリーター&半ニートな日々を過ごすというのが今後の方針だ。他ニーマガ投稿者のなかにもそういった方は存在している。だが、「ニートを名乗るなら働いているのはおかしいじゃないか」という批判はお門違いも甚だしい。そんなものは「社会に出たら一人前に働くべきだ」という価値観の押し付けと同レベルである。ニートマインドを持つ者にとっては何も響かない。これからも最小の苦痛(労役)で最大の利益(自由)を得られるか、という至極効率的な試みをしていくだけだ。その試みがどういうわけか現代社会ではニートやフリーターという呼称でラベリングされた。ただそれだけだ。地位や名誉、正社員など本来どうでもいい。人生の主役である自分自身が、周りを取り囲むエキストラたち(親、上司、SNS)の好き嫌いに怯む必要はない。
改めての記述だが、いま現在はリゾバの真っただ中だ。昨年の生活費は50万円を切ったので、今年の生活費はこの2ヶ月強のリゾバで大半を稼ぎ切れる計算になる。その後は大して働く理由もないのだが、最近は微妙に貯金の余裕が出てきている。こんな気ままな生活をしているのに、だ。今年は久々の海外旅行に行ってもいい、犬と暮らしてみるのもいい。
とにかく色んなことを試した。実家ニート、山奥ニート、狩猟採取。リゾバだってその延長線上だ。どんな人生だろうと誕生できた確率は奇跡的なものであり、かつ一度きりなのだから。大好きな自由時間が確保できるライフスタイルを可能な限り夢想してみよう。
それは何にも縛られない、かつ暇だけはあるニートの理想形だ。