ニート禅のすゝめ
安眠計画
南無阿弥陀佛
令和六年一月一日に石川県能登地方を震源とするマグニチュード七・六、最大震度七の地震が発生いたしました。
この地震により尊い命を奪われた方々、ご遺族の皆様ならびに被災されました各地域の皆様のために聖号十念を贈ります。
南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛
この功徳を以て生者には如来の慈しみと金剛不壊なる深い安心を、そしてまだ何が起きたのか分からず中陰(梵:antarā-bhava)を彷徨う死者には、本願力による速疾なる極楽浄土への往生があらんことを切に、切に祈ります。
さていきなり結論から書くと、ニートは今すぐに坐禅をすべきだ。俺(と一般に了解されている現象の総体)が、この限られた字数の中で書きたいことは、苦難に遭う人々への祈りと「ニートは寝そべってばかりいないで坐れ」という二点だけ。以上。
……ここで擱筆してもよいが、それではニーマガ発起人のゆるふわ無職くんに申し訳が立たない。せっかくなので無意味な(ほんらいすべてのものは無意味なのだが)言説を、もう少しだけこねくり回してみようと思う。読者の皆様におかれては、昼下がりの公園でお坊さんと散歩しながら雑談でもしているくらいの軽いノリで、あと数ページ程度お付き合いいただきたい。
ニートが坐禅をすべき理由。まずこれは単なる霊感にはなるが、ニートと坐禅はハチャメチャに相性がいい。瞑想によって得られる深い安心感、マインドフルな状態は、たとえイーロン・マスクでも孫正義でも、ロスチャイルド家でも天皇陛下でも、世界中のどんな大金持ち、権力者、王侯貴族であっても得ることはできない。むしろそうした「この世界で仮に信じられているゲーム」に勝ち続け、のめりこむほどに、坐禅という「ゲームから降りた状態」から遠ざかっていく。坐禅は無料! 誰でも坐るだけで、タダで悟れるのだ。無上菩提の光は太陽のあたたかさとか、波のさざめき、初夏のそよ風のように、分け隔てなく常に、今も、すべての人の上に降り注いでいる。にもかかわらず「有料コンテンツ」で憂鬱を、苦(ドゥッカ)を晴らそうとするのは、ニートが取り得る戦略としては縛りプレイが過ぎるように思う。
ああ、自己紹介が遅れてしまった。俺こと安眠計画(という現象)はありがたくも浄土宗鎮西義白旗派のお血脈をいただき、得度までさせていただいた、非僧非俗の念佛者だ。瞑想といえば、お勤めの際に必ず読誦する『一枚起請文』では、浄土宗開祖 法然上人が「滅後の邪義」としてバッサリ切り捨てた「観念の念」や、叡山の天台三大部の一書である『摩訶止観』即ち「偉大なるサマタとヴィパッサナー瞑想」などが想起される。しかし同じく大乗仏教で説かれた瞑想「技法」(カッコ付の理由は後述する)ながら、道元禅師の勧めた坐禅はこれらとは似て非なるものだ。
具体的にどのように異なるのだろうか。しつこいようだが、ほんらいであればこの本を閉じ、今すぐ坐禅をすれば即了解完了するところだが、一応「言語ゲーム」という形式に則って、以下に述べていく。
中国曹洞宗の雲居道膺禅師は「恁麼事を得んと欲わば、須らく、是、恁麼人なるべし。既に是、恁麼人なれば、何を恁麼事を愁えん」と云った。何度読んでも世界に対する了解を完全に終えていて、打ち震える名文だ。それを享けて本朝における曹洞宗の開祖である道元禅師が「真の悟りとは? そもそも釈尊が既に証明完了している現象を、現代(当時)のわれわれが再度修め、証する意義とは?」というような、非常にラディカルな疑問を解くために、宋へ渡った。禅師の立てられた問いは初めから「どのように悟るか?」ではなく、「なぜ本覚思想的にいえば〈一切衆生が本来的に具有しているとする悟り〉を改めて悟る必要があるのか?」だったわけだ。この問いの立て方に共感を覚えるニートは少なくないだろう。俺(とされる現象)も「どの職業に就くか?」よりも「なぜ働かなければならないのか?」のようにHOWよりもWHYに目が行ってしまいがちである。
閑話休題。宋国の寺々を巡る中で、ついに正師となる如浄禅師が、ほかの修行僧の居眠りを叱りつける一声を聞き、たちまちに「身心脱落」の悟りを得る(あるいは修証一等によって師匠である如浄禅師ですら「得て」いないということに気づく)。宋から帰ってきたばかりの道元禅師は『普勧坐禅儀』に「諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思はず……此れ乃ち坐禅の要術なり。所謂(いわゆる)坐禅は、習禅には非ず。唯是れ安楽の法門なり。……竜の水を得るが如く、虎の山に靠るに似たり。」と著された。ここがそれまで本朝に伝来していた(「観念の念」や『摩訶止観』などの)瞑想「技法」と一線を画すユニークな観点で、禅師は坐禅を一切の「駆け引き」の世界(その勝ち負けも、ディールの際の約定も含む)からのチル・アウトであると悟られた。
禅師が実践した坐禅とは、竜が水に戻るように、虎が山で遊ぶように、長い間ほったらかしにしていた「今ここ」に戻るだけで十分なのだ。悟りは決して瞑想の積み重ねによるゴール(結果)などではなく、坐り始めたその瞬間に、よーいドンでゴールテープを切っている。こうした悟りの在り方を日蓮宗の宗祖 日蓮上人は『当体義抄』で「因果倶時・不思議の一法」と著された。日蓮聖人は禅宗を強い言葉で批判したが、俺(現象)としては同じ方向に向かっていると思う。それもそのはずで、禅師は『正法眼蔵』において、最上の経典として法華経を受持することを弟子に勧めている。さらに、道元禅師は京都の俗弟子覚念の私宅でご遷化になったが、その臨終の間際、病床から起きあがって、室内を静かに歩き、低声に『法華経』の「如来神力品」の一句を誦し、これを面前の柱に書きつけた。そして自身が最期に住する草庵を「妙法蓮華経庵」と書きとどめられたのだ。
このように道元禅師の坐禅は悟りに至るためのテクニックなどではなく、蓮華が花と実を同時につけるが如く、坐禅(悟りの因)と悟り(坐禅の果)が同時に現象しているという難信難解の真理を、身体的に実践したワークであると考える。
この説を補強するものとして『普勧坐禅儀』の先に引いた箇所ではもっと直截に「……善悪を思はず、是非を管すること莫れ。心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、作仏を図ること莫れ……」と戒めている。坐禅は悟りの姿そのものなのだから、努力をすること(修)とその結果(証)が一体になっている姿をただ現成させてみせるだけなのだと。「作仏を図る」=「悟りを求める意識」さえ停止せよ、と。同じ経典を頂きながら、日蓮教学が持つ精進行(=唱題)への「熱」のようなものは感じられず、ただそこにある自然体の「悟り」を言語化しているように感じるのは、俺(という現象)だけだろうか?
ここまでくると先に引用した雲居道膺禅師の名文「恁麼事を得んと欲わば……」の味わいが変わってきたことだろう。道元禅師はそれに答えて「恁麼事を得んと欲せば、急いで恁麼事を務めん。」(『普勧坐禅儀』)と仰った。インターネットで有名な譬えを借りるならば「服を買いにいく服が無いとか云ってないで、何も考えず、家にある服を着ればいいでしょう」みたいな感じだろうか。
くどいようだが、まだこのマガジンを閉じて坐禅をしていない人のために、ダメ押しに『正法眼蔵』から以下の禅語を贈る。
「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法、すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり」
ここまでニートはとにかく今すぐ坐禅をせよというだけのことを、書き方を変えて述べてきた。しかし安眠計画(という現象)は厳密には、というか、そもそも広義のニートですらない。普通に営利法人で、一兵卒としてフルタイム賃労働に身を窶し、それどころか父方の宗派が伝統的な曹洞宗であるにもかかわらず、先述した通り浄土宗に、阿弥陀如来に帰依している。ここまでお読みになった善男善女の皆様におかれては、ニートこそただちに坐禅すべきことは了解いただいたことと愚考するが、①なぜそのような浄土門からすれば「異安心」めいた真理っぽいことを、②会社員という「属性」を持った俺(とされている現象)が喧伝するのか? という二点に引っかかる方がいらっしゃるかもしれない。同じ「悟り」という現象に向かう大乗仏教とはいえ、念佛者が坐禅を勧めるのはルール違反のような気がしないでもない。
弁明のために一応書いておくと、いや興味がないかもしれないが、俺(現象)の中には、たくさんの「小さなニートたち」が棲んでいる。資本主義リアリズムを蛇蝎の如く嫌う理屈っぽいニート、誰かを蹴落としてまで自分ひとりのために世界に居場所を作りたくない心優しきニート、しょうもない国や資本家に一円たりとも搾取されたくないケチなニート、朝起きるのが苦手な小学生のころからいる古株ニート、不本意な労働なきユートピアを夢想する理想家ニート、ブルシット・ジョブを憎悪する本質主義ニート、エトセトラ、エトセトラ……。しかし「今すぐに坐って気づけ」というのは安眠計画(とされる現象)の中に棲んでいるたくさんの個性豊かな小さなニートたちの、偽らざる総意にほかならない。その小ニートたちの中でも特に若くて健康で、心的エネルギーが有り余っているものはこう叫ぶ。「なぜそれらのリソースを、自慰やインターネット承認獲得ゲームに費やしてばかりいて、坐禅によって一旦すべてのゲームから降りないのか? 坐って恁麼人(=悟った自分)を取り戻して、やがて湧き上がってくる発菩提心に従い、奥能登で被災した人々のために祈れ! 真理は実行されなければならない!」と。少なくとも、もし俺(現象)の「属性」が厳密な定義下のニートであったなら、絶対にそれを実行したことは如来に誓って断言する。輪島市門前町の曹洞宗大本山総持寺祖院は、二〇〇七年三月に発生した能登半島地震(最大震度六強)から立ち直り、十四年に亘る耐震保存復興修理工事を経て、一昨年、七堂伽藍が復興したばかりだ。殊に自然ほどダイレクトに苦と無常を観じさせてくれる教えもない。今回の震災で再びお寺の、能登半島の、いや日本人の、いやいや世界中のニートのマインドフルネスが試されているように見える。
ちなみに、総持寺祖院の僧堂安居生は「中学校以上の学歴を有する曹洞宗僧侶」であれば、誰でも年間を通じて入堂することができる。そればかりか、なんと衣類料まで支給される。瞑想の段階が進み、無上道心が(坐禅はほんらい無上道心のかたちそのものだが、まあレトリックとして)固まったら、家の宗派が曹洞宗の場合はわれ仏縁得たりと今すぐ菩提寺に伺って出家得度しよう。菩提寺が曹洞宗以外であれば、近隣の曹洞宗寺院を訪ねるか、住んでいる所を管轄する宗務庁に問合せてみよう。僧堂では坐禅を根幹とし、鐘司、供頭、堂行、維那、侍者、侍香、導師の法式進退など禅僧としての基本(つまり全て)が習得できる。それらのアートを習得するとどうなるか? 詐病して生活保護を受給したり、しょぼい不労所得と水道水でただ自分のためだけに生きるよりもずっと、悟りの光の中で立ったり坐ったり、息をしたりものを食べたり、誰かと大切な時間を分かち合うことができる。すべての駆け引きから降りてきた世界の傍観者たるニートこそ、太祖大師御開山の地であり、また瑩峨両尊の御廟で仏祖道を行じ、宗侶としてかけがえのない修行弁道の日々を、良き師や友と共に送ってほしい。
最後に、なぜここまで伝統教団で学ぶことを勧めるのかについて述べたい。別にお寺さんでなくとも、今やヴィパッサナー瞑想のセミナーはあちこちで開かれており、禅に関する書籍は一生かけても読み切れないほどに揃っている。ただ『正法眼蔵』八十七巻(=七十五巻と十二巻)という大著を二十年以上に亘って著された他ならぬ道元禅師ご自身は、出家絶対主義者だ。宋より帰国したばかりの初期道元は、当時仏教界でも被差別的な扱いを受けていた女性の仏道への参加を積極的に勧め、在家や出家といった「分別知」よりも道心の有無や、見返りを求めない実践の誠実さこそを重視していた。しかし活動拠点を京都から越前(福井県)に移したころから、起きてから眠るまで、歯の磨き方や洗顔の仕方、食事やトイレの作法までこと細かにマニュアル化された厳しい僧堂生活でしか、本当の習禅は達成できないという結論に至られた。これも単なる凡夫の霊感だが、禅は、というか仏教全般は、師僧なしでは絶対に完成し得ない。悟りはその辺で閲覧できるテキストのみでは教えられない(不立文字)だけではなく、たとえ独学我流で自身の「気づき」が深まってきたとしても、いわゆる「野狐禅」との判別がつかず、かえって無明という人類特有の持病を重篤にしかねないからだ。
これは実際に体験した者なら頷いてくれると思うが、瞑想によって齎される変性意識状態は言語を絶するほどに神秘的・超越的なもので、ここにいくつもの落とし穴が隠れている。何も得ておらず、また確証のない心的現象を切り取って「俺は悟りを得た!」などと妄言を吐こうものなら、波羅夷法といって教団を永久追放になる重罪にあたる。またこれはインターネットで「原始仏教」なる空想上の教え――その人の頭の中にしかないから「教え」というより「解釈」と表現した方が実態に即しているが――にとらわれている野狐禅の人に顕著だが、伝統的に「禅病」と呼ばれる、ある種の学習性無力感のような「無限の虚無」にはまり込んで出てこられなくなってしまった病人も散見される。あまりにも病人が多いのでここに断言しておくが、仏教は決してニヒリズムなどではない。四法印のひとつである「一切皆苦」という言葉だけが巷間独り歩きしているが、苦しみを正しく見つめて、その根源を断つ法こそが仏教の本体なのだ。
坐禅は坐るだけ、などと書いたが、実はマインドフルな状態を保ったまま独り正身端坐し続けることは、猫背ニートにとっては想像以上にしんどい。『スッタニパータ』は「犀の角のようにただ独り歩め。」という名フレーズで有名だが、同じく『スッタニパータ』五十八番目の韻文では次のように頌(うた)われている。
「学識豊かで真理をわきまえ、高邁、明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。」
さあニートよ。高邁で明敏な友たちよ。今こそ「大いなる絶望」を了解完了して、本物のニートになるときが来た。人間を廃業し、世界を終わらせろ。身相既に調えて、欠気一息し、左右揺振して、兀兀と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなわち坐禅の要術なり……。
合掌